感じてならない感情など、はじめから生まれない


本来、わたしたちは無限の存在だ。

そして、無限という意味は、どこまでも制限がないということ。

善、悪、といった、二極に偏った正解が存在するのではなく、すべてであってこそ、無限の意味となる。


真っ暗な深海に沈み、もう二度と這い上がれない、と塞ぎ込んでしまいたくなるほどの虚しさ。

みなもから見える太陽の光を追いかけながらも、水中から引き摺り込まれてしまうほどの不安、恐れ、寂しさ。

あれほど心を躍らせ、夢にまで描いていた理想とは遠くかけ離れた現実への怒り、憎しみ。


喜び、安心、などの満ち足りた感情以外の愚かな感情の多くは、「こんなの、わたしのものではない」と拒絶し、抵抗したくなるだろう。

内なる愚かな感情に触れる苦しみは、'愚かな感情' そのものが苦しみを招いている、と思い込みやすいのも当然だ。


ただ、わたしがこれまで生きてきて感じているのは、そうじゃない。

 '自分の内に在る、たしかな実体を拒絶しようとしている抵抗' から、苦しみは生まれるのかもなぁ、と。


愚かな感情を抱く人間は美しくない、と、これらもまた誤解が多い。

そして、そんな愚かな感情を抱く自分は見るに耐えないが故に、あえて、自分自身以外に目を向け、このわたしに愚かな感情を抱かせた、世界や他人の欠点を探し、否定し、絶望し続ける。


目を背けず、真正面から、すべての色の自分自身を受け止めてあげる時間は、人生の物語の一部として、誰にだって必要なのだ。 



気が済むまで、一人、泣いていい。

気が済むまで、一人、怒っていい。

気が済むまで、一人、恨んでいい

気が済むまで、一人、妬んでいい。

気が済むまで、一人、暴れていい。

気が済むまで、一人、嘆いていい。

気が済むまで、一人、人のせいにしていい。


気が済むまで、一人、感じていい。


むしろ、感じる必要があったからこそ、その物語は起きているのだから。


ひたすら '入り口' から逃げたとしても、すでに必要な道として用意されているのだから、鬼ごっこのように、道の '入り口' の案内を繰り返されるだけ。

いざ '入り口' に入ってしまえば、必ず ’出口' にも出会えるようになっているのだ。


もう感じる必要はない、と内側が柔らかく悟るまで、たとえ何時間かかろうが、何日かかろうが、何ヶ月かかろうが、何年かかろうが、気が済むまで感じ尽くすことを、決して諦めないでほしい。

闇も同じ光であるという真実を、決して疑わないでほしい。


他人や世界を変えようと、感じたものを、他人や世界に当たり散らしても、なにも生まれない、なにも始まらない。

本当の道は、一人、孤独の時間によってのみ、生まれ、始まっていくのだから。



わたしも、三次元の肉体をもつ自分自身が、弱く、未熟で、非力で、至らない、愚者であることを認めざるおえない出来事に、何度も直面した。

人や世界に絶望し、恨み、妬み、怒り、暴れ、壊れ、傷つけ、罵り、奪い、欲し、嘆き、渇望し、他人のせい、時代のせい、環境のせい、立場のせい、世界のせいにしたこともある。

そして、憎しみや怒り、寂しさを嘆いている自分を感じる度に、「わたしは、こんな色ももっているのか」と、一人、新たな自分を知っていった。


愚かさの度を超えるような、初めて見る、闇深い色に直面しては、恥じるどころか、笑いがこみ上げてくることもあった。繊細で複雑な色の識別、無限にある絵の具の数に興奮した感覚であり、これほどの無限からの選択の自由に希望を見出した。 

「わたしは、すべてを持っている」「無限にある絵の具から、このパレットには何色をのせていこうか」と、表現の幅も広がっていく。


わたしが思うこの世界には、偶然なんて存在しない。

起きるものすべては、わたしたちの内側で計画された、奇跡の序章か、または、奇跡の延長か。

どちらにせよ、わたしたちは今、奇跡を生きている。



わたしたちは無限の存在だ。

 何者にでもなれるほど、何者でもない。何者でもないからこそ、何者にでもなれる。無であり、有でもある、矛盾。相反するすべての可能性に満ちた、超越した存在なのである。


無条件に愛するとは、「何色の自分も、内側に存在する」と、愚かさや未熟さを受け容れ、すべてを愛することではなかろうか。 

何色でもあり、何色でもない、自分のなかにある、超越した無限の力を認めた上で、自ら選び、好きな色を生きたらいいのではなかろうか。

そう力強く生きると決めたわたしたちの恐れや不安の闇は、信頼や安心の光と溶け合い、いつしか、ひとつの愛になっているのではなかろうか。