贅沢な魂


わたしにできることってなんだろう。

絵を描くこと、言葉を綴ること、写真を撮ること、の表現すること、そして、ただ存在すること、で、わたしが与えられるものってなんだろう。そんなふうに考えた日だった。


考える、問う、この過程が好きだ。

なぜなら、考えたら、問うたら、必ずそれらに応える答えはやってくるから。

その瞬間、今すぐにやってくることもあれば、時間が経って忘れた頃にやってくることもある。



自分のなかにある世界を魅せる、という今の芸術的表現活動は、世間から見たら全く意味のない、最上級の自己満足の類にある。

とはいえ、芸術的表現活動も人の数だけ在りかたがあり、自由だ。誰も、個人の在りかたについて難癖つけられたくないし、つけたくもない。争いたいわけじゃないし。


わたしがしっくりくる活動は、大衆や大多数が求めるものを理解した上で提供したり、社会、市場、相手、を把握し、絞り、与える、ような、理想や期待に応えていく方針ではないからこそ、この純粋な自己満足的活動に対して、本当に贅沢な仕事だなぁ、なんて思ったりする。


自己満足の世界であるが故に、意味がない。価値がない。と、周囲の理解を得にくい環境下において、それでも我が道を選ぶ、ということは、全員が全員できる、簡単な選択ではないから。

ただなんとなく「楽そうだから」「楽しそうだから」と選択したとしても、その場合の殆どが、得体の知れない罪悪感に呑み込まれ、挫折してしまうのではないだろうか。

挫折しないまでも、表現は表現でも、自由であった我を手放し、他人の好みや理想に寄り添う形へと切り替える流れも、少なからずあったりする。

もちろん、それらに善悪はない。


ただ、我、自由、を基準にして生きつづけるには、強さが必要だ。

なぜなら、生身の人間である以上、わたしたちが精神的に満ち足りやすい材料は共感力だと思っている。共感され、承認され、肯定される場や数が多ければ多いほど自信になる。

また、「生きる」よりも、「生きなければならない」「生き抜かなければならない」が色濃い現代社会。

わたしたちは、人間である義務感といった透明な圧力を、日々、無意識に受け取っている。その出どころの分からない圧の影響を受けない人間も中にはいるのだろうけれど、強く、本当に強く、意識しつづけなければ、簡単に唯一の魂を手放してしまう(見過ごしてしまう)のが人間の性なのかもしれない。


ただそれでも、共感、承認、肯定、が得やすい '需要と供給のサイクル' を徹底的に無視し、どこまでも自分だけの世界にこだわらなければ気が済まない魂がある。

たとえば、芸術家、哲学者、科学者、発明家。彼らは、自分だけが信じた世界に対し、自ら、絶対的な共感、承認、肯定、をゼロから生み出し、そして、維持し続けなければいけない。孤独とも言える時間。

けれど、この自分しかいない世界は、寂しさから気持ち良さへと切り替わる瞬間は必ずやって来る。 彼らは社会的な光を見ぬまま死んでいくことも少なくなかったのだろうけれど、最終結果や得られた形はどうあれ、とことん純粋な自分のまま存在していた。

絶対的な精神の自由を手にした。ある意味で、とても贅沢な人生だったのでは、と重ねて見てしまう。 



愛に満ちた、静かな世界が好きだ。 気持ちい、そんな感覚が好きで、柔らかい、そんな空気が好きで、愛と優しさ、平和で、自由で、安全で、美しい、すべてが溢れてしまうほどの豊かな世界が好きだ。 

それは、いつもいつも、既に、わたしの心のなかにある。

心という宝箱に、もう既にある。


この心の中身、宝箱を魅せることは、本当に何も意味がないようで、絶対的な意味がある、と強く感じた。というよりも、そうであることを知っている。に近い。


わたしは自分の世界を知っている。

わたし自身が見つめる世界だけを知っている。

静かに、それでいて、力強く、ただただそれを疑うことなく、見ている。


本来、孤独は、寂しさから一番遠い場所にある。