愛の器


愛している気持ちから、愛している人が愛しているもの、こと、存在、を理解する、尊重する、そんな愛があることも知ったり。


昔、父が大嫌いだった。あまり、人を嫌う、という感情を味わうほうではないのだけれど、もう、どうしようもないほどに嫌いだった。

物心ついた頃から、ずっと母が辛そうだったから、なおさら思っていた。

四歳の頃、わたしは母に連れられ、寝室のベッドの上で正座し、向かい合った。そして、包丁を向けられた。一緒に死のう、楽になろう、ごめんね、と。母の手は震えていた。扉の向こうからは、酒と薬(精神科)の過剰摂取で、理性を失った '傷のかたまり' が暴れている、音がする。



両親は、根本の問題から目を背けていたのか、壊れて、おさまって、を、十数年と繰り返していた。親族を巻き込み、友人を巻き込み、警察をも巻き込む。「壊しあってばかりなのに、どうして二人は離れようとしないんだろう」、父どころか、母を恨んでいた時期もあったのだけれど、二十歳を越えて、母の気持ちは分からないけれど、それでも一緒にいたいくらい大切なら、母の人生なのだから、母の気持ちを尊重しよう、それでいいよ、好きにしていいよ、と思った。 


呆れて、ではない。

見放す、ではない。

突き放す、ではない。

どうでもいい、ではない。


どう在ってもいい、だ。


母のことを愛していた。わたしの価値観から主張を押しとおそうとする、愛に見せかけた支配よりも、相手を理解し、尊重する、愛を選んだ。

母を、精神的にも肉体的にも自由にしたし、わたしも、自分の正解で他人を評価するような支配欲から自由になれた。 

両親とのあいだでは、他人の価値観と自分の価値観を切り離すこと、愛の自由さ、を、学べた気がする。



愛は、ときに痛みを伴う。 

それは、愛が器を拡げてくれるから。

与える器も、受け取る器も。

今までよりも、大きく。深く。頑丈に。


この器こそ、目に見えない意識。

わたしたちの本体。 わたしたちそのもの。