動物と神のあいだ


前に、動物と神のあいだ、という古本を購入し、読んだ。

題名だけで、求めていた答えを受けとった気がして、ほとんど読んでいないから、題名を読んだ、かな。(もう一度、中身を読んでみよぉっと)


本来、対極・二極、は存在しない。し得ない。 

だけれど、二つで一つで成り立っているこの世界は、どちらかの対極に偏っている自覚がある以上、もう一つの対極の可能性の芽をもっている、ということ。


わたし自身、「'自分' をもっているよね」と言われる機会も増えてきたのだけれど、自分を見失うほど世界や他人に同調し、共鳴し、一体化してしまう性質が根底にある。

そして、そんな性質があるからこそ、対極にある、' 個人・自分の輪郭をはっきりさせる' ができつつあるのだと思う。



繊細な人ほど、鈍感な人であるように。

冷たい人ほど、温かい人であるように。

弱い人ほど、強い人であるように。

馬鹿な人ほど、聡明な人であるように。

神であるほど、動物であるように。


自分だけしか考えられていない、なんていう傲慢さを抱えているような人であっても、他人へ心を配り、他者への奉仕に生き甲斐を感じられる謙虚さを奥底に秘めているように。

すべて、逆も然り。


殺人事件のニュースを見聞きする度、思う。

人を殺してしまうほどに、愛も心もない、非道で冷酷な人間に見えたのなら、慈悲、慈愛、の心をもった、情緒、起伏、感受性の強さ。そんな可能性を秘めている。

生まれ育った環境、周囲の大人たち、関わる人間関係、社会によって、花の咲きかたが違うだけで。 



わたしは、対極のどちらかだけを肯定し、その片方を否定するのは、あまり好きじゃない。

どちらもあっての、わたしだから。わたしたちだから。

だからこそ、ある意味で、対極・二極に偏る思想や世界をも受け容れている自分がいる。


まずは、それでいい。どう在ってもいい。


わたしたちは、どちらでもあるほどに、どちらかだけでもなく、真んなか、無限、なんだ。

両極を認めた先に、調和のとれた、ひとつの世界(真んなか)、愛が見えてくる。のだろうなぁ。


こんな風に考えるとき、愛は、マトリョーシカみたいっ!、と、いつも思うよ。  


ふと、浮かんできた言葉をメモしようとしたら、ちょうど、虹があらわれたょ。