届けたいもの



届けたいものは、愛だ。

受け取りたいものも、愛だ。


だからこそ、愛以外は届けないし、愛以外は受け取らない、と決めた。






以前、こんな詩をかいた。


わたし自身、与えようとしていたものは、放ったものは、受け取ってもらえなければ、わたしが処理しなければならなかった。


わたしが放ったものには、わたしに責任がある。




匿名であっても、こうして名前を出していても、わたしは、わたしなりの愛を放ちたいと思う。


正義ではなく、支配ではなく、常識ではなく、わたしなりの愛を。心を。


こうしなさい、でもない。

こう在るべきだ、でもない。

それ、あれ、が間違っている、でもない。


ただただ、わたしができる愛の表現を放ちたい。




そして、たくさんの愛を受け取りたい。

だからこそ、愛でないものを受け取らない勇気をもつ、とも決めている。



詩にある過去のわたしがそうであったように、「愛でないもの」を放ち、相手から受け取ってもらえなければ、自分自身が、放ったものを受け取らなければならない。


その、素晴らしい機会を相手から奪いたくはない。


優しさを誤解して、すべてを受け入れたりはしない。

自分にも、他人にも、愛をもてる自分で在りたい。





個人の意見を尊重される自由が嬉しい。


わたし自身も、こうして自分の意見を尊重されている自由を噛み締めながら、表現活動ができている。



自由だからこそ、自分自身で見極めた上で放たなければいけない。

そのわたしにとっての線引きは、やはり愛があるか。


他人は、分からない。

一人一人、その線引き基準は違うから。



今後も付き合っていきたい、離れたくない、大切で愛おしい親友、恋人、に贈る手紙のように、一つ一つの言葉に、想いに、愛をのせる。

言いづらい、見せづらい、躊躇するような、過去にも、本性にも、本音にも、一手間で愛をのせる。


わたしの場合、過去も、本性も、本音も、愛がのっていないのなら、ただの排泄に過ぎないから。

わざわざ自分の敷地内に侵入され、そこで排泄されてもいい気はしない。


まぁ、排泄は排泄で、性癖としてはありなのかもしれないから、恋愛相手だけにしておけばいい。

痛みや苦しみ、生々しさ、穢らわしさ、といった罵倒を喜ぶマニアも世の中にはいるのだから。




二十五歳になった頃、父から、「お前なんて生まれてこなければよかったんだ!」「娘だと認めたことがない!」と叫ばれた。


警察が家にやってくる、少し前。

刃物の出番がやってくる、少し前。

絶望の、直前。


その父から発させられた愛のない言動・行動を受け取らなかった。

つまり、わたしの大切な創造の場所、心を介さなかった。


「わたしとは無関係のもの」「わたしに対するものではない。父のものだ」として線引きをしては、受け取らなかった。


幼少期のわたしなら傷ついていたのだろうけれど、その頃のわたしはもう傷つかない。

わたしが受け取らないと決めた以上、傷つくことなどできないのだ。



「お前が美春を娘と思ってなくても、美春はお前の娘だ!」「お前が愛してなくても、美春は愛してるからこんなに悲しいんだ!」と叫んだ。


言葉は汚いけれど、もはや排泄同然だけれど、半ば理性を失っていたけれど、愛のないものへの後悔は大きいから、どんなときでも愛をのせたかったんだと思う。

本来なら受け取る必要のない愛のないものを受け取り、傷ついていたならば、プライドが邪魔をして、愛をのせることなど難しい。


愛のないものに対し、わたしができる対応といえば、受け取らない、傷つかない、愛をのせる。

両親との関わりで得た一番の宝は、この叡智かもしれない。





自由の陰陽、どちらにも転ぶ可能性があることを知っている。

陰の影響も強いからこそ、制限という形で囲い、守る手段があることも知っている。


それでもやっぱり、わたしは自由が好きだ。


制限、という形で守る必要がなくなるほど、

世界中の個人個人が、愛の存在であることを信じている。


愛の存在になってほしい、ではない。


変えるべき世界など、ない。

変えるべき人など、いない。


今、もうすでにそうである。

世界を信頼している。