許せない
昨日、「どうしたら許せるのだろう」と相談というか、ちいさな質問をもらった。
その子に、「美春さんは許せない人はいる?」と聞かれ、「(今は)いない」と答えた。
これは、許せない人がいてはいけない、すべて許さなければいけない、という意味で答えたわけではなく、今は本当にいないし、いなかったからそう答えた。
ただ、なんにせよ、多種多様の状況や環境による無限のパターンがある。
一概に、統一した一つのアドバイスで済むような、そんな執着や許せない感情があるのは理解しているのだけれど、わたし自身、「目の前にあるもの・見えるものだけが真実ではない」という絶対前提があるからか、執着した経験が少ないのと、許せないと思った経験も少ない。
とはいえ、この人だけは一生許せない、許したくない、と思っていたことは過去にある。
メッセージ上の一言二言しか聞いていないから、状況を事細かに想像し、許せない感情を抱えた彼女そのものへ憑依できなかったものの、「許せない」という感情をもっている自分に苦しみを感じている様子は伝わった。
とにかく、心が解放されたい。
とにかく、抱えている苦しみから楽になりたい。
自然な感情であり、正常な感覚だと思う。
なぜなら、本来は心が解放され、安心し、心地よい状態が自然であるから。
だからこそ、思考は、心が解放されるための解決策を生み出した。
対象の相手・出来事を許すことで、心が楽になるはず。と。
けれど、'対象の相手・存在を許す' というのは、心が楽になるための手段の一つ。心が解放されるための手段の一つ。
対象の相手・出来事を許すことは、数ある手段の一つではあるけれど、心に安堵をもたらすための絶対条件ではないはず。
だから、別に、許さなくてもいい。とわたしは思う。
もちろん、別に、許してもいいけれど。
どうしたら、今、あなたの心が楽になるか。解放されるか。
まずは、今はここだけに意識を向けてみたらどうだろう。
心が楽になるために、解放されるために、醜いとさえ思うような '否定的な感情をもつ自分自身' を許してあげてみる。
自分のために、過去の許せない対象に対し、全力で、あの頃の嫌悪を感じてあげてみる。
嫌いでもいい。
否定してもいい。
拒絶してもいい。
嫌なら嫌でいい。
大人げなくていい。
許せなくていい。
許さなくていい。
嫌い嫌い嫌い、大嫌い。
許せない許せない許せない、許せない。
最低最低最低最低、最低。
〜して欲しかった。
〜して欲しかった。
〜して欲しかった。
〜しないで欲しかった。
〜しないで欲しかった。
〜しないで欲しかった。
…
綺麗な感情だろうが、汚い感情だろうが、実際問題、本心では、そう沸いてきてしまったのだから仕方がない。感じているのだから仕方がない。生まれてしまったのだから仕方ない。
感情に、善も悪もない。
言いづらい感情なら、誰にも見せなければいい。
たとえ、本心を封印し蓋をしたとしても、蓋の中身は昇華されることもなく蓄積していくもの。
蓄積したものは同じものを呼び寄せ、また蓄積し、いつしか蓋の中から溢れて噴火する。
どうせ遅かれ早かれ向き合うべき感情であるのなら、今、蓋を開けて取り出してみよう。
見て見ぬ振りして内に溜め込み、飼いつづけるよりも、しっかり目と目を合わせ、感じ、外へ解き放す。
他人を許してあげようとするよりもまず、一番近しい他人・自分自身を許してあげてみる。
'善人で在らなければいけない' 、'人格者で在らなければいけない' という呪縛から解放されてみる。
否定したい、罵倒したい、拒絶したい、素直な感情をもつ自分自身を許してみる。
「〜で在らなければ、一人の人間として許さない」と煽り、追い込むほどの自分に対する過度な期待を手放し、自由に、楽に、解放させてあげる。
心に残り続ける許せない存在は、実は、過去にあなたが捨てた、もう一人のあなただったりするから。
あなた自身が、'(たとえ倫理的に悪であるような)どんな自分であっても許される' という無条件の幸福を体感すること。
今、少しでも安心する。
今、少しでも楽になる。
今、少しでも解放される。
今、少しでも自由になる。
今、少しでも優しさに包まれる。
そうあるうちに、もしかしたら、自然と、気付かぬうちに、許す・許せない、という両極の囚われから、いつの間にか解放されていた、なんてこともあるかもしれない。
あれれ、そんな苦しむほどに大切に抱え続けるようなことでもなかったのかも、もうどうだっていいかも、なんてね。
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