多様性


最近、マニキュアにハマっててね、楽しい。

自分でできるし、なにより気軽に落とせるからいいよね。


あとなんか、マニキュアって単語、ずっと見てるとおもしろい。

プリキュアみたい。キュアについて調べたい。


この週は、白みピンク。

この週は、スモーキーなピンク。

二日後、赤みを足して、スモークピンクブラウン。

来週は、真っ赤がいいかなぁ。

彩度を落とした赤にしようかなぁ。



綺麗でいれたら気持ちがいいし、好きだけど、他人にお願いしてまで綺麗を保ちたいかと言われたら、優先順位はそこまで高くないのかもしれない。


毎回人に頼まなければ保てないもの、が、どうしても苦手なんだと思う。

維持しつづけなければならないもの、も、極力生活から減らしていたい。


維持しているものでも、好きで気づいたら毎回してる、くらいの熱があれば、いくら時間やお金をかけていたとしても、なんの負担にもなっていないだろうから。

「こうあるべき」「こうあらなければならない」なんて他人に強要しなくても、自己満足で気持ちよく完結できていたら負担になっていない証拠なのかもね。


わたしの生活のすべては、そういうものたちだけで構成できたらいいなぁ。



知り合いと、付き合う恋人の美意識の話になった。

最近は女性だけでなくて、男性の美意識も上がってるとか。

性別の括りがなくなってきている今だから、当然と言えば当然なんだろうけどね。


知り合いは、美意識が高い相手(恋愛対象が男性)がいい、と。

化粧もしていい、と。

うんうん、いいね、いいと思う。


でもわたしの場合、マインドが今時ではないから。多分。

男たるもの、とか、女たるもの、とか、そういうのが好き。

個人的な好みとして。


だから、化粧はわたしだけがいい。

好きな人にしてほしいとまでは思わないな。

武士みたいな、侍みたいな、誠実で硬派な男性が好き。



今の時代の言葉に、多様性なるものがある。

言葉は、それぞれの捉え方によってやや極端に暴走してしまっているのも否めないけれど、無理に今の時代の流れに好みを合わせようとしなくていいんだと思う。

どんな時代も、好きなものを、ただ好きでいればいいし、ただ選べばいい。

そして、自分の好みを主張するのに、それ以外を否定しなくてもいい。

本来、古いも新しいもないんだろうね。


流行りというのは、これまで大衆から受け入れ難いとされてきたようなものを肯定するための多数決的な波。勢いだと思う。 

人間の性質の一部に、ある対象に対する共感や支持が多ければ多いほど、魅力を感じたり、肯定的に見始めるようになる。もっと言葉を崩せば、許せるようになる。 

そういうものがある気がしている。


だから、流行っているものこそが普通とか正義とか、決してそういうのではなくて。

その流行というビッグウェーブが終われば、流行った対象は存在そのものが許され、それらに存在の権利が与えられる。 


0から1へ。

この世で1で在れることの幸福。

そして、1も100も、本質は変わらないこと。

在る。以上。


流行は、そういった役割を示してるんじゃないかな。 


流行りの中から「これだ」と思える自分にとって自然なスタイルに気づけたら、それはそれで素晴らしいことだし、流行っていたとしても、それらが自分にとって自然なスタイルとして感じられないなら無理に取り入れる必要もないし。


多様性なるものは、好きなものを選んでもいいという自由であり、自由とは愛だと思うから。

多様性を武器にした強要や否定は、自由も愛もないのだから、それはきっと別物。