愛するための距離
わたしたちの根底には、愛がある。愛で繋がっている。
だからこそ、ときに愛せるところまで距離をとることも必要だと実感している。
「すべての他人と距離をとろう」「すべての他人と向き合おう」というような、'(大きな主語の)他人との距離感' の良し悪しの問題ではなく、自分と、そのそれぞれ一人一人とのあいだには、唯一無二のパーソナルスペースがある。
あるがままの自分のまま、精神的・肉体的、パーソナルスペースが近ければ近いほど違和感が生じない間柄こそ、縁が深い。といわれるものなのではないか。と。
縁の深さは、距離の深さ。
わたしは、肉体的・精神的に、距離をとることに罪悪感を抱かないようにしている。
本格的に集団生活が始まりだした学生時代から、心の奥で違和感や不快感が生じたり、相手の存在を肯定できないと感じたら、躊躇なく距離をとっていた。
どんなに親しかった間柄でも、情・恩などの過去を持ちだすことなく、「今、この距離感は心地よくない」という心の声に潔く従った。
ただ、好き・嫌い、といった両極端の感情を基準にしてしまうと、どうしても距離をとることに罪悪感を抱きやすいかもしれない。
そして、自分が罪悪感を抱いているものほど、同様に相手から責められる。
または、その抱いた罪意識を正当化するために、「距離をとらせるような相手が悪い」と、相手を責める。
善悪概念ならではの、悪循環。
愛しかない、という信念を基にわたしの世界は構成されている。
だからこそ、愛せない(相手の存在を自由に尊重できない)状況自体、存在しない。しえない。
だからこそ、わたしは愛せる距離まで、心も身体も、潔く離れる。
近くにいて「存在を肯定できない」と心地の悪い感情を抱き、相手を否定したり変えようとしたくなるくらいなら、まったく現実的に関わりがなくなったとしても「どう在ってもいいよ」と心地の良い感情を抱き、わたしも相手も心が楽に自由になるのなら、そのほうがいい。
距離が近すぎて鳴り響く心の不協和音は、愛の調和がとれていない警告音。
一人一人、相手とのパーソナルな距離を知り、とる。
あぁ、この人とは、このくらいの距離だと存在を肯定できる。
あぁ、あの人とは、このくらいの距離だと存在を肯定できる。
自分を、他人を、愛するため。
愛を軸にした行動なのだから、距離をとることに罪悪感を抱く必要なんてない。
「人として」「普通として」そういった世間を軸にした良いでも悪いでもない、ただただ愛を基準にした選択。
そして、一旦、思い切って距離をとってみて、それでも側で愛したい、と望むのなら、また新たな道は生まれるだろうと思う。
その道へ進むと覚悟をもったのなら、距離をとる前の自分と新たに進もうと覚悟している今の自分とでは、まるで別人のはずだから。
もし縁があれば、不調和が生じたときほど潔く距離を受け入れることで、距離と化した恐れが炙り出され、自分自身と深く向き合いさえすれば、これまで必要だった距離そのものがなくなるものだから。
縁がある、縁がない、は、自我ではどうしようもできないほど、完璧な調和の元にある。
本来のわたしたちは、あるがままの自分のまま、幸せを感じられる。
肩肘はらず、無理をしなくていい。それが自然なのだ。
片方だけがあるがままを許され、もう片方のあるがままは許されない。
どちらかが根底に不快感や違和感を抱いている時点で、今、二人を繋ぎとめているのは愛ではない。
どちらかの無理・犠牲・我慢・負荷があってやっと成り立てている、張りぼての縁。
条件というものは、一種の取り引きでもある。
無理・犠牲・我慢・負荷と引き換えに、得たもの、守れたもの、もあったはず。
シーソーのような、条件付きの不安定な調和の中で。
ただ、不自然で保たれていたものは、遅かれ早かれ、壊れていく。
わたしたちは、無条件に愛を感じていい。
本物は、条件も取り引きも、何もいらない。
無理・犠牲・我慢・負荷なんてなくても、得れ、守れる。
何をしてもしなくても、愛している。愛されている。
そう感じられる瞬間こそ自然であり、本物の実像なのだ。
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