愛するための距離
わたしたちの根底には、愛がある。愛で繋がっている。
だからこそ、ときに愛せるところまで距離をとることも必要だと実感している。
「すべての他人と距離をとろう」
「すべての他人と向き合おう」
というような、〈他人との距離感の良し悪し〉ではなく、自分とそのそれぞれ一人一人とのあいだには、それぞれ唯一無二のパーソナルスペースがある。
そして、あるがままの自分のまま、精神的・肉体的、パーソナルスペースが近ければ近いほど違和感が生じない間柄こそ、縁が深い。といわれるものなのではないか。と。
ある意味で、縁の深さは、距離の近さなのだと思う。
ただ、わたしたちは生まれてからあるがままでいられているか?と言ったらそうではない。
親の教えや周囲の環境に適応した、修正された自分である人も多いだろう。
大人になる前の生活に制限がある時期は、自分で環境を選ぶことはできない。
だからこそ、距離が近い人(家族や同級生)に自分自身を寄せていき、生き延びようとするのが動物の生存本能である。
しかし、環境に適応した偽りの自分自身のままでは、本来結ばれるべきご縁たちとの距離を遠ざけてしまう。
わたしは、肉体的・精神的に、距離をとることに罪悪感を抱かないようにしている。
本格的に集団生活が始まりだした学生時代から、心の奥で違和感や不快感が生じたり、相手の存在を肯定できないと感じたら、躊躇なく距離をとっていた。
どんなに親しかった間柄でも、情・恩などの過去を持ちだすことなく、「今、この距離感は心地よくない」という心の声に潔く従った。
ただ、違和感に気づいたとしても、どうしても距離をとることに罪悪感を抱きやすいかもしれない。
そして、自分が罪悪感を抱いているものほど、同様に相手から責められる。
また、責められる前にその抱いた罪意識を正当化するために、「距離をとらせるような相手が悪い」と、ひと足先に相手を責める。
この距離の取りかたは、マイナス面が多く悪循環である。
「距離を取ることは悪」といった固定概念に支配されているため、そもそもの大前提から見直していくと、少しずつ世界は楽に生きやすくなっていくのではないだろうか。
※
わたしが心がけていることの一つに、「愛で殴らない」という選択がある。
常日頃、わたしにとっての正解や愛で、いろいろな発言や行動の選択している。
そこまではわたしの管轄であるが、その先に、その愛が相手にとって、愛として受け取ってもらえないこと、誤解されること、理解されないこと、は多々ある。
それに対して、更に被せるように「愛なのに!」と愛を武器や拳に変換しない、それが、「愛で殴らない」。
受け取りかたは、相手次第。相手の領域。相手の管轄。相手のタイミング。
一生、誤解されても、理解されなくても、わたしが相手を愛しているのならそれでいい。
相手をコントロールする必要もなければ、理解のない相手を卑下したり嫌う必要もない。
賛否両論あるかもしれないが、大前提、「愛しかない」という信念を基にわたしの世界は構成されている。
だからこそ、愛せない(相手の存在を自由に尊重できない)状況自体、存在しない。しえない。
だからこそ、わたしは愛せる距離まで、心も身体も、潔く離れる。
近くにいて「存在そのものを肯定できない」と心地の悪い感情を抱き、相手を否定したり変えようとしたくなるくらいなら、まったく現実的に関わりがなくなったとしても「どう在ってもいいよ」と心地の良い感情を抱き、わたしも相手も心が楽に自由になるのなら、そのほうがいい。
距離が近すぎて鳴り響く心の不協和音は、愛の調和がとれていない警告音。
一人一人、相手とのパーソナルな距離を知り、とる。
あぁ、この人とは、このくらいの距離だと存在を肯定できる。
あぁ、あの人とは、このくらいの距離だと存在を肯定できる。
それは、自分を、他人を、愛するため。
愛を軸にした行動なのだから、距離をとることに罪悪感を抱く必要なんてない。
「人として」「普通として」そういった世間を軸にした人格や価値のジャッジではなく、ただただ愛を基準にした選択。嘘なく愛するためのポジティブな選択。
そして、一旦、思い切って距離をとってみて、「それでもより近くで愛したい」と望むのなら、また新たな道は生まれるだろうと思う。
その道へ進むと覚悟をもったのなら、距離をとる前の自分と新たに進もうと覚悟している今の自分とでは、まるで別人のはずだから。
もし縁があれば、不調和が生じたときほど潔く距離を受け入れることで、距離と化した恐れが炙り出され、自分自身と深く向き合い、古い自我の消滅が起こる。
自分自身が変われば、これまで相手との間にあった距離そのものがなくなるようになっている。
本当に不思議で面白い世界だ。
本来のわたしたちは、あるがままの自分のまま、幸せを感じられる。
肩肘はらず、無理をしなくていい。それが自然なのだ。
片方だけがあるがままを許され、もう片方のあるがままは許されない。
どちらかが根底に不快感や違和感を抱いている時点で、今、二人を繋ぎとめているのは愛ではない。
どちらかの無理・犠牲・我慢・負荷があってやっと成り立てている、張りぼての縁。
条件というものは、一種の取り引きでもある。
無理・犠牲・我慢・負荷と引き換えに、得たもの、守れたもの、もあったはず。
シーソーのような、条件付きの不安定な調和の中で。
ただ、不自然で保たれていたものは、遅かれ早かれ、壊れていく。
わたしたちは、無条件に愛を感じていい。
本物は、条件も取り引きも、何もいらない。
無理・犠牲・我慢・負荷なんてなくても、得れ、守れる。
何をしてもしなくても、愛している。愛されている。
そう感じられる瞬間こそ自然であり、本物の実像なのだ。
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