他との結び


大切な存在との結びに言葉は必要ない。

経験上、猫や動物、赤ちゃん、他国籍言語者とも関わり合えるし、愛し合える。

けれど、口頭による言葉でも、点字による言葉でも、手話による言葉でも、わたしたち人間にとって、言葉とは互いをより理解しようと深めるのにはとてもいい手段の一つだと思う。



感じる、意識。

整える、意識。

伝える、意識。


個人的に、この三つの意識が三位一体となって、愛のある結びが生まれる気がしている。


感じる、は、わたしたち個人の人生の指針となるほど重要な土台。

わたしたちにはどうしたって好き嫌いがある。避けたくても、好き嫌いが生じる。

生理的、本能的な感覚であり、頭で変えようとしたって変えられない。

この、感じる、さえ正確であれば、わりと簡単に人生の指針は決めることができるのではないだろうか。


整える、は、感じた感情を整理整頓していく作業。

精査までしなくとも、わたしはそう感じている、と、ただ認識する、ただ知る。

この俯瞰的感覚は、結びには必要不可欠だ。

わたしは感じている、から、感じている自分がそこにいる、へ、視点の切り替えが起こる瞬間。


伝える、は、自分以外と結びついていきたい、共存していきたい、という意思である。

自分一人で完結する世界もあれば、他者と関わりながら生きていく世界もある。

正直、どちらともに、どちらかを平等に選べる権利はあると思う。

もし、他者と関わりたい、結びついていきたい、願望があるならば、「自分」を伝えなくてはいけない。


この三つは、どれが欠けても難しい。

三位一体。結びを生むには調和を保つ必要がある。


そもそも、感じる、を疎かにしている人も多い。

感じる、を疎かにした場合、人生という旅をするのに、操縦席が空っぽのようなものだ。

感じようとしない、感じたくない、感じることを恐れている。

なんにせよ、感じない、ということは、指針がないということになる。


感じる、を疎かにしていると、自動的に空っぽの操縦席に座りこんでくるのは、常識、世間、多数決、つまり他人だ。


自分の感じた好き嫌いよりも、他人がどう思うか、他人にどう思われるか、世間的に正しいか間違っているか、多数決的に多い「普通」だろうか、これらを優先してしまうため、他人が操縦席に座った状態が習慣化されればされるほどに、感じる機会も失われていく。

そして、「幸せってなんなんだろう」「幸せの感覚が分からない」「なにも楽しくない」と、この地球で、この宇宙で、一人、迷子になってしまうのだ。


また、感じることを放棄し、他人を優先させてばかりいると、自分の好き嫌いを感じることに恐れを抱き、罪悪感を抱いたりする。

たとえば、「この人を好きになってはいけない」だとか、「この人を嫌いになってはいけない」だとか。「宇宙飛行士になりたいなんて思ってはいけない」だとか、「労働したくない、無職でいたい、なんて思ってはいけない」だとか。

そんな人はまず「わたしは、◯◯が嫌いだ」「わたしは、◯◯をしたくない」「わたしは、◯◯のことを許せないし、これからも許したくない」と、感じている素直な思いを、実際に声に出すところから始めてみてほしい。

わたしたちは、どんな状況環境立場にいようとも、なにを感じようと自由である。このことを思い出してみてほしい。


感じる、の土台がなっていなければ、次の、整える、もなにもない。

自分自身に整える感情がないのだから、常に相手の感情に入り、相手の感情を分析、整理、しようと疑ったり、じっと探り始めるだろう。


好き嫌いに関しても、感じる、を飛び越えて、整える、をしようとするので、感じるよりも、まず「わたしの好き嫌いはなんだろう」と探ろうとしてしまう。

これは良い悪いの話ではないし、経験や過程として必要な場合もあるだろから、なんとも言えない。

ただ一つ言えることは、考えたり探ったりして出した答えへの満足度は、ゲームをクリアしたときのような一瞬の達成の喜びのみで、じんわり永遠に続くような余韻に至る、魂の達成の喜びが得られる可能性は低い。ということだ。


伝える、に関しては、感じる、の先の、整える、がなければ形にならない。

自分自身ですら認識しきれていない粗い感情を伝えようとする行為は、投げる、ぶつける、に近い。

自分自身で管理できていない感情は、言葉に変えたところで、相手にとったら刃であり石ころなのだ。不快であり、違和感でしかない。

よほど精神的に自立し、かつ愛の器が大きい人であれば、それらの感情表現にも手を差し伸べ、成長の機会を与えるのかもしれないけれど、多くの成熟した人であれば、それらの感情表現には相手にしない、距離をとる大切さを理解しているため、結びは生まれない。


この逆も然り。

整える、ができていても、感じる、がなければ、自分自身が不在であるため、相手から(特に、前者型)「この人、わたしのことよく分かってくれている」と心地よく感じてもらえる利点はあるかもしれないけれど、ただただ気が消耗していく。

実際、互いに補い合っていることは確かなのだけれど、相性がいいとはまた別の話で、本質的な個性というよりも、成長を放棄した未熟さ同士が引き合っている。

それは、真の結びではない、よね。




ただ、未熟さは個性ではないにしても、未熟さも含め、わたしたち一人一人の魂の学びの過程であることを理解し、尊重したいと思う。

そして、本当の意味で結ばれたいのならば、三位一体の意識は必要であるとも思う。