自分が与えたいものを与える


自分がされて嫌なことは、相手にもしない。

自分がされて嬉しいことを、相手にもする。


よくこういった言葉を見聞きする。


わたしの場合、自分がされて嫌なことをしない、とか、自分がされて嬉しいことをする、とか、そういった考えはないなぁ、と自覚した日があった。


まず社会に出て、自分自身がされて嬉しいこと、そして、嫌なこと、は、本当に人それぞれ違うんだと衝撃を受けた。

小さな社会でいえば家族なのだけれど、そんな家族のなかでも、されて嬉しいこと、されて嫌なこと、に違いが生まれたりする。


わたしは神経が過敏で、音や光、強いなにかを感じると、直ぐに身体に影響が出て、そして身体に影響したものは精神にも影響が出る。

ドアの開け閉めの音、車や電車の音、人の声、例を出せば他にもあるけれど、普通に生活するだけでたくさんの音が飛び交う世界ではあるからこそ避けることはできないけれど、できるだけ柔らかで優しい世界に自分の身をおく努力をしている。


ただ、家族はそういった音や光、強いなにか、に敏感ではなかったため、自分自身が「されて嫌だ」とは思わないからこそ、そういった配慮は皆無だった。

それに、わたしがどれだけ、音や光、強さに関するあらゆるものを、わたし基準で彼らの環境下で配慮したとしても、正直、彼らに喜びはない。

なぜなら、実際にそれをされたとしても、わたしほどの苦ではないから。


わたしは家族をとおして、「されて嬉しいことをする」「されて嫌なことをしない」という精神自体、相手への愛や配慮の目的では、なんの意味もなさないのだな、と自覚した。




わたしは、強く鋭い言葉を発するのは好きではなく、どちらかというと柔らかい言葉を発するのが好きだ。

それは、他人や相手のためではなく、その言葉を選ぶ自分自身が好きであるから。


わたしは、物音を強く立てるのは好きではなく、どちらかというと優しく物を扱うのが好きだ。

それは、他人や相手のためではなく、そう扱う自分自身が好きであるから。


わたしは、不機嫌を他人に撒き散らすのは好きではなく、どちらかというと整えてから人と関わるのが好きだ。

それは、他人や相手のためではなく、いつでも機嫌のいい自分自身が好きであるから。


わたしは、食欲、睡眠欲、性欲、愛欲、承認欲、あるゆる欲求が暴走して他人から奪おうとするのは好きではなく、どちらかというと満たされている状態が好きだ。

それは、他人や相手のためではなく、満たされている自分自身が好きであるから。


わたしは、愛を抑制し、制限するのは好きではなく、どちらかというと全力で愛を表現するのが好きだ。

それは、他人や相手のためではなく、愛に全力な自分自身が好きであるから。


また、これらを「〜しなければいけない」「〜で在らなければならない」と自分を不自由に追い込む姿勢は好きではないため、ときに感情的に怒り狂う出来事があるのなら、ときに与えたくないと直感的に感じる出来事があるのなら、今、そうしたくてしている自覚をもったまま、そういった選択をとる日もある。


すべて、わたしがしたくてしていることであり、すべて、わたしが望んでしていることであり、すべて、わたしの意志でしていること。


この一方通行の矢印だけで心の満ちが完結しているからこそ、相手から同じようなものが返ってこなくたっていい。

逆にいえば、この一方通行の矢印だけで心の満ちが完結しなさそう、しないと自覚がある場合、潔く、与えることはしないようにしている。


'自分がされて嬉しい' を基準に他人に与える際、「喜んでくれるに違いない」といった期待が根底に見え隠れする。

もちろん、相手の喜びを想像して贈るのは愛だ。


ただ、喜んでくれたら嬉しい、を越えた意識、与えたからには感謝するべきだ、喜ぶべきだ、嬉しがるべきだ、などの意識があると、愛や優しさを贈っているどころか、期待という負担を贈っていることになる。


相手に与え、'自分の理想と(想像)する反応' 、見返り・感謝がないと、気分が悪くなる原因は、相手に問題があるわけではない。

「無条件の愛を贈ったのか」「条件付きの期待を贈ったのか」このどちらであるのか、自分自身に問題がある。


人は、無条件でないものに愛は感じられない。

無条件でなければ、心地よく受け取れないようになっている。



無償でないものは、最初から与えない。

自分のアクションだけで満たされないものは、最初から与えない。


わたしが与えるだけで満ち、運良く、相手がその満ちを喜んでくれたのなら、滿ちは二倍以上の無限の価値に変わる。

たとえ喜んでくれなくても、すでに自分自身で満たされているのだから問題はないし、喜んでもらえても、相手と満ちを共有し、さらに喜びを創造できる。


ただ、したいからする。

ただ、したいとは思わないからしない。

ただ、それだけ。


わたしにとって、この在りかたが自然である。



相手には相手の喜びがあり、相手には相手の悲しみがある。

そこに善悪はないのだ。

ただあるのは、相性だけ。


相手が喜んでくれてもいいし、相手が喜んでくれなくてもいい。

そして、相手も同じように返してくれなくてもいい。

ただただ自分自身が無償に与えたい、渡したい、やりたい、したい、言いたい。


この一方通行の矢印、無償の行為に心地よさを感じてくれている人ほど、相性がよく、また、互いに相手からの無償の行為に心地よさを感じられる二人ほど、縁が深いと言われるものなのだと思う。