完璧ではないからこそ完璧なのだ


わたしたちには生まれもった性質がある。


地域でいえば特産物のような、その土地を代表する彩り。

その土地の気温や天候、環境、土や水の質でしか育たない唯一無二の作物こそ、わたしたち人間の本質に近い気がした。


わたしたちには、それぞれのわたしたちにしかない、それぞれの性質がある。

その性質たちこそ、自分自身を代表する彩りだ。




わたしの父は愛に飢えていたせいか、わたしたち家族を愛することができなかった。

荒い気質も相まって、テレビで放送するとしたら放送事故になってしまうほど(もはや打ち切り)の勢いで、とんでもない言葉で罵倒し、根こそぎ人格を否定するような人間である。

彼は相手が再起不能になるまで、または降参して捩じ伏せるまで怒鳴り、煽りつづけるほどの体力もあった。


彼をとおして多くの学びがあった。

それはわたしにとって人生最大の不幸であり、そして、最大の幸福でもあった。

わたしは彼にどん底を見せられたおかげで、わたしはわたしを見つけることができ、わたしはわたしを、誰よりも深く大きな愛で愛する術を見つけ、与えられるようになった。

精神的に不自由のない温かい家庭に育てば、ここまで貪欲に自分自身に潜り、問い、迷い、自分自身や世界そのものを知ろうとなど思わなかったはずだから。



はじめに、わたしたちには生まれもった性質がある、と言った。


本来、性質に良い悪いも裏も表もない。長所も短所もない。

背中合わせの一つ、性質、しかない。


ただ、わたしたちにはたった一つの性質だけを持ち合わせているかと言ったらそうではなく、複数の性質を持っている。


例えば、わたしであれば。 

遅い。めんどくさがり。神経、身体、五感、感情、のすべてが過敏。社会性がない。お金の管理ができない、守れない、分からない、分からなければいけないという気さえも起こらない、ルーズ。こだわりが強い。こだわり以外は適当、無関心。愛至上主義。夢想的。楽観的。身体が弱い。切り替えが早い。自分に忠実。争いや競いが好きではない。そのままを受け取る、信じやすい。ただ、すべてにおいて矛盾している。よく分からない。など。


本来、これらの性質一つ一つに長所も短所もない。

この性質をもっているわたしこそ、嘘のないありのままのわたしであり、完璧ではないからこそ、機械的なAIではない「人間」のわたしでいられる。


そして、人間の価値とは、この完璧ではない部分にこそ宿っているのではないか、とすら思う。



以前、マンションの電気水道ガスなどのそういったなにかが止められたことがあった。理由は、支払いに行くのが面倒だった。

すべて引き落としだった。ただ、日常的に使う口座を限定せず、適当にそれぞれ入れ、それぞれの銀行口座にどれだけお金が入っているかも把握していないので、引き落とされるにもされない、なんてことはよくあった。

そして、実際にわたしは止められたところで使わなければ生き延びられるので、真っ暗闇でも水が出なくても、特に気にせず数日過ごしたりもしていた。

毎月の家賃も、決まった額を決まった日に定期的に払えたことがないかもしれない。

わたしは忘れる前提でいるので、初めのうちにまとめて数ヶ月分を振り込んでおくことが多かった。

なので、今月は家賃を払うべきなのか、払わなくていいのか、自分でも分からなくなっていて、「とりあえず、入れておくか」みたいに入れるときもある。足りないときもある。

支払いに関しては結構そういうのが多くて、余分に支払った分がまとめて返ってくるものもあった。


同棲していた彼と別れる際、その彼に必要なベッドだとかを運んでもらった。

その際、わたしはほとんどの私物を彼と同棲していた部屋に置いてきた。理由は、面倒だったから。

一年も経たないで彼もその家を出ることになった際、彼はわたしの荷物を捨てずに、彼の実家にわたしの荷物を全送りした。

「大切なものもありそうだから、取りに来る?」と彼の母親から連絡があり、一人で取りに行った。彼の地元まで取りに行くと、印鑑だとか、通帳数枚とか、キャッシュカードとか、割と大事なものまであった。

それまでないことに気づかなかった。し、その後、彼の引っ越し先の家(東京)が全焼したので(朝方、彼は携帯だけ持って逃げ、荷物も全焼)、彼の地元に送ってもらっていたことで、わたしの通帳たちは燃えずに済んだ。(燃えていても、なかったことに気づいてなかったので問題はない)


ないならないでいいし、あるならあるでありがたい、で済んでしまう。

身体や神経は敏感ではあるけれど、精神的には横着で、ひどく楽観的な性格なのかもしれない。


簡単にいうと、なんか、ちゃんとすることが苦手なんだよね。



父はわたしの性質すべてが気に入らず(それもすごい)、罵倒し、否定し、生きる価値などない、とまで言っていた。

父の考えは時代や常識に沿っていて、世の中ではそう思うのが当たり前なんだろうな、と、父の言い分は安易に理解はできた。


ただ、努力したところでできなかった。

たとえ無理をして少しばかりできたとしても、時代や社会についていけたところでなんの喜びもなく、犠牲や負担というストレスだけが残り、早々に身体は壊れ、潰れた。


なら死んだほうがましだと心から思ったわたしは、一度、精神的に死んだことにした。

そして、時代、社会、という巨大船から降り、一人、気ままにボートを漕ぐ、ただのわたしとして生きることにした。


この世界は、この海は、自由だ。




社会性、人間性、共に非の打ちどころのない完全無欠の完璧でいれば、認められ、崇められ、憧れられるかもしれない。素敵だ、と、目を輝かせてもらえるかもしれない。すごい、素晴らしい、と尊敬してもらえるかもしれない。

それもまた素晴らしい。そう思われるのは、ありがたい。


けれどそれ以上に、わたしはわたしという純粋な存在のまま、ありのままを直視してもらい、ありのままを抱きしめてもらい、ありのままを好きだと愛してもらえるほうが、心が温かくなり、満たされる。


わたしたち人間は、大切な人の完璧ではない部分にこそ愛らしさを感じ、完璧ではない部分を愛されることで、魂が震えるような、心身の重たい錘が解放されるような、本当の意味での安心を感じられる気がしている。




また、性質は、その時代時代によって、または対応する人によって、劣るような短所に見えたり、長けてるような長所に見えたり、と、受け取る相手によって温度が変わる。


つまり、性質には相性がある。

時代の相性、そして、対人との相性。


ただ、時代とは人間の志向、多数決的な比重によって決まる曖昧なものであるため、大きく見れば時代もまた対人だ。


自分自身の一つ一つの性質を肯定的に捉えてもらえる相手こそ、きっと相性がいい。(逆も然り。互いに。)


本来、性質は悪さしない。

悪さをする場合、性質が悪い、短所である、というわけではなく、単純に、その環境やその人間との相性が悪いのだと思う。


大きく張りのある声しか出せない、指が太く、手先が不器用、というような性質をもった男性が、絶対に小さな音、声でしか話してはいけない、生活のために高時給の「癒しの囁き倶楽部(耳かき店)」で勤め、毎日クレームの嵐で辛いと嘆いている、としよう。


これは彼の性質が短所であるわけではなく、単に相性が悪いだけだ。


声を小さくする必要もない。

はっきりとした張りのある大きい声に元気や活力をもらいたがっている人もいる。


指を細くする必要もない。

男らしさや力強さ、そこに安心感を感じる人もいる。


手先を器用に鍛錬する必要もない。

その不器用さに愛らしさを感じたり、大雑把さや豪快さに肩の力が抜け、癒される人もいる。


ある特定の条件に執着さえしなければ、執着するほど魅力を感じていた場所以上の場所が存在することに気づけたりする。



わたしたちは完璧ではないからこそ、完璧だ。

わたしたちはパズルのピースであり、凸凹であることが完璧だ。

必ず互いがピタっとはまり合う、環境、人間、が存在する。


まだ見ぬ出会うべき存在たちとの出会いのために、今、心に描こう。今、心で感じよう。今、心の受け取る準備をしよう。


今まで多くから否定されて、自分では認めずらい、あなたの一部があるかもしれない。


そんなありのままのあなたの一部を、今、抱きしめる。


そこが素敵なところだよ。

そこがあるからいいんだよ。

そこがあなたらしくていいんだよ。

もう愛されていいよ。

もう幸せになっていいよ。


完璧ではないところがあってはじめて、完璧なんだよ。