カルタ
ぼくはいつものようにカルタへ寄った。カルタとは、スミたちと住む家の一番近くにあるベーカリーだ。ここではよくクロワッサンとバタールを手にすることが多いけれど、これまで食べたことのないおもしろいパンに出会わせてくれるカルタはぼくたちにとって心踊る、たいせつな店だ。
カルタには二つの顔がある。夫婦で切り盛りしていて、昼のベーカリーは基本的に主人のクドウさんが一人ですべてを回している。
そして、夜には酒場喫茶のような色気のある店へと顔を変える。きれいな白髪を後ろ一つに束ねた、婦人のアイさん。整った静かな顔立ちと、柔らかな低い声が特徴である。純粋な子たちにわたしの煙草の香りが邪魔しちゃ悪いわ、とクドウさんが焼くパンに気を遣い、昼のベーカリーには滅多に現れない。クドウさんとは三十以上、歳が離れていると聞いたけれど、アイさんを見つめるクドウさんの目尻はいつも垂れ下がり、口角はいつも上がっている。それに、パンの香ばしさと煙草の香りが混ざり合っても、それはそれで相反するマリアージュ、お洒落だ、とクドウさんが肯定するも、アイさんは、あなた全然一流じゃないわ、と嬉しそうに茶化す光景を見たことがある。
夜の喫茶も、アイさんの当日の気分によって営業の有無は決まる。それでも席は埋まり、アイさんが眠くなるまで空くことはない。
ぼくは最初に手にとるパンに迷わない。スミの好きなクロワッサンを五つ、手にとった。次に、こころなしか一番形がいびつに見えたバタールを一本と、チーズとほうれん草、ゴロッとしたトマト、ひき肉が包まれたパイを二つ。今直ぐにでもこの幸福な香りを紙袋に閉じこめ、スミの元へ持って帰りたい気持ちは、すこしばかり表情にでていたと思う。
「そういえば、二年前にもこの街に来たんだ」
ときどき、離れた街の若者が足を伸ばしてこの街へやってくる。
「黒い頭の青い目をした女に会ってさ。あのときは散々な目にあったよ。食事に誘ったり、花を渡したり。けどその女、あまりにも笑わないんだ。他にも俺のできる全てのことをしてやったよ」
「最後なんて突然だよ。'もう会いたいと思わない、ごめんなさい' だってさ。これだけやったんだから、嘘でも微笑みの一つくらいくれたっていいだろう。俺はあの女に金も時間も男としての自信も、なにもかも奪われたよ」
「だから時々、こうしてまたこの街に来るんだ。今の俺を見て後悔させてやりたいんだ。逃した魚はとんでもなく大きかった、って」
とはいえ小さな街だ。皆が親戚、ほどの距離ではないけれど、髪の色、目の色、個性、のすべてが一致する人物はそう多くない。聞き耳を立てるほどでもなかった。十人もいれば窮屈に感じるほどの店内に反した声の大きさは、耳に残しておいてあげらなければ失礼な気さえしてしまう。男の視線はいかにもある特定の人物を探しているようだった。そして、男にとって'用のないパン屋'になった瞬間、もうここに意識はない。その探るような重たい視線は窓の外に向いている。男は小さなパンを一つだけを買っては、早々に店をあとにした。
男の口から出てきた「女」は、今、ぼくと一緒に住んでいる、ぼくが買ってくるパンを心待ちにしている、あの女性で間違いないだろう。そう言い切れてしまうのも、スミとはそういう人間だからだ。何かを食べたければ、食べたいと言い、花が綺麗であれば、綺麗だと言う。会いたくなくなければ、いいわ、と言い、会いたくなければ、どうかな、と言う。もう二度と会いたくなければ、もう二度と会いたくない。そう言うのだ。あまりにも単純なものほど複雑に映ることもある。簡素で純粋なものほど明瞭な鏡の役割を担うのだ。複雑なのは自分自身であった、易しくそう説いてくれているかのように。
「きっと今もスミちゃんに会いたくて会いたくて仕方ないのね」
「困ったな、一人で街を歩かせられないよ」
ぼくは冗談めかしく困りながら、おつりとパンを受け取った。珍しい、今日はアイさんが店番をしている。
「まぁ、さっきの彼、スミちゃんに奪われたと言っていたけど奪われたんじゃないわね。最初から彼、なにも持ってなかったのよ」
「うん、ぼくもそう思うよ」
「お金も、時間も、自信も、彼は最初から持っていなかった。奪われたと勘違いしているけど、スミちゃんは持っていない事実を教えてくれたのにね」
水煙草でも葉巻きでもなく、彼女はクドウさんが揚げた砂糖がまぶされたスティック状のパンを齧る。
「本当に持っているものは、誰かに奪われたりしないもの。揺るがないもの。絶対に」
カウンター越しからは見えないところに、淹れたての熱いコーヒーが置いてあるのだろう。細くでる湯気がアイさんの齧るスティックパンの先と重なり、煙に見えた。アイさんと煙は相性がいい。
「食べる?」
「ありがとう、大丈夫」
「待たせてるから、行くよ」
本当に持っているものは、誰かに奪われたりしない。
常に奪われることを恐れていた、過去の自分に教えてあげたくてたまらなくなった。どうしようもなく大切で、どうしようもなく愛おしくて、どうしても離したくないものに出会いたいと焦がれながらも、いつか奪われてしまうのならと手に入れる前から絶望し、拒絶していた過去の自分に。
カルタで会った男の気持ちも分からなくもない。いや、分からなくない、は間違っている。彼は過去のぼくなのだ。本当は何ももっていなかったのに、もっていると思い込んでいた。最初からなかった事実を認めるよりも、他人に奪われたと思い込むほうが自尊心は傷つかない。その傷つけたくない自尊心だって、あってないような脆く小さなものであるとどこかでは気づいていたからこそ、余計に騒ぎたて、必死に守ろうとしていたのだろう。
ないものは奪えない。残るのは、ない、という真実だけだ。ぼくも一度、スミに「ない、ぼく」を明瞭に見せられた一人でもある。カルタでみた男を笑う権利はないけれど、真剣に同情する権利は、きっとある。
今思うと、随分と深呼吸が気持ちよく感じられるようになったのはスミと出会ってからだ。ぼくは生きている感覚をはじめて捉えられるようになった。これまでは生きている感覚なんて捉えようと思ったこともなかったのだから、不思議だ。
スミはまだ寝ているだろうか。それともぼくが家を出た音で起きて、コップと皿を用意してくれているだろうか。ぼくは、本当にどちらでも構わない。
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