流れを止めない
流れを止めるな
流れを止めない
事あるごとに、わたしの心の奥から聞こえてくる。
この言葉とは長い付き合いになる。それほど、よく聞く。
「流れを止めるな」の真の意味として、「人としてこうあるべきだ」なんていう最もらしい人間的美学を捨てるよう、心の奥のわたしが言っているのだ。
優しさは美しい、わたしだってそう思うけれど、美しさが優しさというわけではないことを、心の奥のわたしが言っている。
たしかにお金は幸せの一部である。
けれど、幸せとはお金ではないように。
たしかに優しさは美しさの一部である。
けれど、美しさとは優しさではない。
表面的な衝動ともまた違う、本心からくる思いがある。本能だ。
それは、意味としては "なんとなく" という言葉に近い。
わたしはいつも、この、"なんとなく" に従わなければ自然ではない、そんな気がして、そう、従うことが自然であるような気がして、行動も発言も、すべてがここから来ている。
絵を描く理由も、なんとなく合っている気がするからだし、詩にする理由も、なんとなく合っている気がするからだし、続けていたことを辞める理由も、なんとなくもう嫌な気がするからだし、人に近づく理由も、なんとなく気になるからだし、人から離れる理由も、なんとなく違う気がするからだし、人を好きになる理由も、なんとなく全部に惹かれているからで、理由らしい理由なんて、思考から後付けでどうにでも付け加えられる。
理由らしくない理由で済むならば、なんとなく、だけで、本当は理由なんてない。
対人関係においても、これまでの行動言動のほとんどの根元が、特に理由にもならない理由からきていたため、責められたり、怒られたり、詰められたり、と、相手を混乱させているようだった。
また、自分にとって面白くない形でどう反応されたとしても、たしかに不快は不快でありながら、「そう」「うんうん」と、静かに眺めている自分もいた。
怒りや悲しみといった嘆きは、彼ら自身の内側のものであり、わたしのものではない。
わたしの反応を通し、彼らがどう感じ、どう選択・表現するも彼らの自由だし、またそれを受け取り、わたしがどう感じ、どう選択・表現するもわたしの自由だ。
それが、流れを止めるな、流れを止めない、に繋がる。
この ”なんとなく” は、思考を介することを嫌う。
思考が根拠を述べようが、思考が善悪で判断しようが、思考が常識を訴えようが、どんなに最もらしい根拠も善悪も常識も、全く意味をなさない。
実際に思考を介したとて、「そっか」「だよね」なんて軽くいなされるだけで、実際に思考の声が選ばれることはまずない。
"なんとなく" を選択するということは、過去でもなく、未来でもなく、損得の計算でもなく、ただの今、今この瞬間を大切にしている証であり、対人関係において、"なんとなく" を選択するということは、時に無慈悲で無神経なようで、真に思い遣っている証でもある。
相手に、相手自身の人生・相手自身の深層状態を、写し鏡として見せてあげられるのだから。
内に恐れがあるならば、恐れを見せ、内に悲しみがあるならば、悲しみを見せる。また、内に喜びがあるならば、喜びを見せ、内に安らぎがあるならば、安らぎを見せる。
わたしたちは、計算のない、心からのなんとなく、無意識的本能のままで在ることで、相手の内を鏡となって見せてあげることができる。
それは、"なんとなく" を経由した、"極めて純粋な状態" でしか与えられない真の優しさ。
たとえ、一見、優しさとはかけ離れた行動・言動に見られる可能性が大きかったとしても。
ただ、優しさを誤解して、この "なんとなく" を無視し、自分自身の本心とは違った行動・言動をしてしまうこともある。
本心を呑み込んだ、我慢、犠牲、譲歩、許容、理解、供給。
この偽善の行末は、相手はわたしの行動・言動から痛みや不快さを感じない代わりに、相手自身で自分を見つめる機会、自分で自分の人生の責任をとる機会、自分と向き合い、成長・拡大する機会を奪ってしまう。
だからこそ、今、良くも悪くも、成長・拡大のない域もまた存在・維持することもできている。
すべてに偶然は存在せず、完璧な調和をもって、すべてが完璧に響き合っている。
本来のわたしたちの意識は、常に、無限に、成長・拡大しつづける状態こそ自然なのだ。
それは、あのブラックホールのように。
わたしの "なんとなく" で、
悩ませる
傷つかせる
悲しませる
苦しませる
怒らせる
寂しがらせる
ことすら、止めない。
表面的にはわたしが原因のように捉えられるかもしれないけれど、そうじゃない。
本当は、心にないものは感じることはできない。
元々心にあったから、感じることができるのだ。
"なんとなく"という明瞭な鏡を以て、間接的に相手の中にあるものを見せてあげているだけなのだ。
わたしたちは、明瞭な鏡に下手な手を加えてはならない。
本能的に感じる素直な思いがあったとしても、止まることの知らないめぐる思考から、手を加えたくなるかもしれないけれど、それは明瞭であるべき鏡を歪ませているだけであり、それは相手に虚像を見せているということ。
そして、「真実を直視できる器がない」と相手を見くびり、全く信頼していない。全く相手の幸せ・可能性を信頼していない。
自分にも相手にも、拡大のために必要な学びや気付き、つまり、これまで以上のなにかを受け取るための新しい器を創造する、魂の衝撃が生まれない。
自分の中にある、悲しみと向き合う。
自分の中にある、寂しさと向き合う。
自分の中にある、怒りと向き合う。
自分の中にある、劣等感と向き合う。
自分の中にある、不安と向き合う。
自分の中にある、恐怖と向き合う。
向き合った先で、在るべき自分・世界と出会う。
真実が見えてくる。
「相手がどう思う」「相手がどう感じる」「相手がどうする」
これらのすべては相手のものであり、相手の中にあるものであり、わたしたちが常に相手の感情の先回りをし、思考によって痛みの根を摘もうとしてはならないのだ。
実際に、他の誰でもない自分自身が感じることで、はじめて「わたしには、この痛みがある」と気づくことができるから。
そして、気づくも自由、気づかないも自由、気づいた上でどう生きていくかも、本人の自由だ。
わたしたちは本来、互いに「正確な鏡」「明瞭な鏡」で在ってあげなければならない。
"なんとなく" を選ぶことは、わたしとしても、時に恐い、時に痛い。
ただ、それ以上にすべてを信頼しているからこそ、恐さや痛みを抱えながらも飛び込める。
わたしは、流れを止めない。
わたしは、流れを止めないことを恐れない。
わたしは、流れを止めないことで誤解されてしまう痛みを受け入れる。
これこそ、わたしにとっての世界のすべてを愛する方法。
分かりやすい愛らしい愛、ではないかもしれないけれど、それでいい。
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