学びかた


初対面のかたに絵を描いていると伝えると、「(今)学生さん?」「美大へ行ってたの?」なんて聞かれることが多い。

きっと深い意味はなく、時間や関係を育む上での会話の一環として質問してくれているのだろう。

今はもう、そういった表面的な会話であると理解しているけれど、数年前までは表面的な会話ではない深層的な会話として捉えてしまい(わたしの癖)、返しに困っていた。

ただ、返しに困っている自分を解消させるために自問自答が始まるため、わたしの中のわたしが声を上げ、その声を拾い、そして、わたし自身がはっきり浮かび上がってくるからいい。





〈特定の人・団体に教わる、教える〉

この作業があまり好きではない。鋭くいうと、嫌いだ。柔らかくいうと、わたしにとっては必要でない。

学校や進学に興味をもてなかった理由は、ここにある。


このあいだ、同級生とその話になった。

彼女は学校の先生をしていて、また近々イタリアへ専門的な知識を得るため留学する。

彼女には「本当に学びたいものに出会ってないんだよ」「出会ったら教わりたくなる」と言われたが、きっとそうではない。なぜなら、(自分が惹かれる)学び自体は大好きなのである。ただ、特定の人・団体に教わる(教える)、ここに自分にとっての不自然さを感じているだけなのだ。

そう話してくれた彼女はそうだったのだと思う。そして、それでいいと思う。特定の人・団体に教える、教わる、これらを否定しているわけではなく、あくまでもわたしには必要がないだけで、それらに価値や必要を感じている人を蔑む考えはほんの少しだってない。



わたしの場合、一人、図書館や自室にて歴史や書物、動物、自然、日常や経験から学ぶことが多い。

資格や称号が必要な分野であればまた違うのかもしれないけれど、わたしが絶対的に必要としているのは感覚や精神といった制限のない自由な意識だ。


特定の人に「自由」に基づく感覚や精神を学んだとしても、個として存在している以上、個から完全なる自由を学びきるのは不可能である。仏陀やキリストですらそうであったように。仏陀やキリストの個が、邪魔になるときが必ずくる。そして、越える必要があるのだ。

仏陀やキリストのように、ある程度のところまでの導きはできる。ただ、限界がある。不自由とまではいかない。ただ、自由でもない。

その限界までの導きで充分に満ちる人々もいるのだから、この世界のすべての人がわたしのように自由を求めているわけではないし、また、自由が幸せの代名詞ではないことも理解している。


学びかたは、人の数だけある。

学校や施設、団体、または師匠といった特定の存在に教わることで学びを深める人もいれば、わたしのように自然や日常から学びを深める人もいる。


教わりたいがないのだから、教えたい、その意識もない。

文、絵、写真、存在、肉体、ただただその場でわたしの世界をさらけ出す。

そこから拾えるものがあるのなら、勝手に自由に拾ってください。


わたしはこの自由な感覚が、やっぱり好きだ。