満たされる


​ 


 逃げてる 逃げてる

満たされる、気持ちから

ずっと 


逃げられない 逃げられない

満たされない、気持ちから

いつも ​   


いきたいね

逃げなくてもいい世界

みたいね

逃げなくてもいい世界


いいや いいや 

もういいや ​​

やめてみたやめてみた 


逃げるのをやめてみた

満たされない、気持ちから 


あーあ

満たされない 満たされない 

埋まらない 埋まらない

足りない 足りない ​


穴だらけの自分が見えた


彼女は、走っていた

彼女は、走っていた

泣きながら ​


「穴をふさげられるようで、 絶対にふさげられないもの」 を、追いかけていた ​

「穴をふさげられないようで、 絶対にふさげられるもの」 から、逃げていた

ずっと いつも


穴だらけの自分は、止まった

前でもなく 後ろでもなく

穴の空いた自分をみた

やっと ​


指で、するりとなぞってたしかめた

穴のふちをとるように


あーあ

こんなにもさみしい、いびつな形

こんなにもさみしい、ふしぎな形

わたしのなかにしかない

さみしい、いとおしい形 


なににもふさぎようがないのなら、

そのまま愛でるしか、 ないじゃない

じん、と


撫でて、抱いて、 

よしよし、してあげるしか、 ないじゃない

そっ、と ​


あーあ

そうか そうね

わたしのこころの鍵穴にあう鍵が

わたしがもってないわけ、 ないじゃない 


どこかにあるわけ、 ないじゃない ​

だれかで、なにかで、

どうにかなるわけ、 ないじゃない 


わたし以外 わたし以外 




この詩は、満たされない気持ちを認めたときのもの。

いつかなぁ、二十六歳の頃のメモにあった。



わたしはずっと、満たされない気持ちを直視するのが恐かった。

わたしはずっと、幸せではない自分に気づくのが恐かった。

満たされていない自分と向き合い、恐怖を感じるくらいなら、見て見ぬふりして、気づかぬふりして、満たされているふりをしているほうが、まだこの世界を生きていける気がした。


けれど、満たされるふりをしたまま、「満たされたい」「満たされるために」を原動力に走りつづける自分が壊れた。

この世界を生きるために恐怖を感じないように目を背けたはずなのに、「この世界を生きたい」といった熱を失ってしまったのだ。

生きるためにした選択のはずなのに、生きなくてもよくなってしまった。

満たされているふりをして、幸せなふりをして、先に心が死んだ。

「ふり」というのは、他人に「わたし、満たされてるよ」と放っているわけではなく、わたしがわたしに「わたし、満たされてるね」と押し付けていた。


そこで、冒頭の詩(ことば)が生まれた。

自分の中にあるとんでもなく大きな穴を、まじまじと見た。



心の底から満たされないのなら、わたしはこの世界を生きる意味がない。この世界に存在する意味がない。

たとえ、どんなにこの本音が贅沢だと言われようが、わたしにとっては真実である。


この世界は、満たされるためにある。

この世界は、幸せであるためにある。

それも、細胞一つ一つが歓喜し、鳥肌、涙、ため息、となって湧き立つほどの心の底から。


理由も根拠もないけれど、わたしにとって世界とはそういうものである。

なぜか分からないけれど、そうである、と信じて疑わない、確信して疑わない自分がいる。

だからこそ、自分の中にある大きな穴の存在を見過ごすことなんてできなかった。

「穴」なんてないのが当たり前だからこそ、「穴」の存在に違和感を感じていた。


つまり、過去のわたしは、存在しているわけがないものが存在しているのにも関わらず、その存在への不信感に目を瞑っていた。だから、「それ」はずっと存在しつづけることができるのだ。

その存在をなかったことにするには、一旦まず、「それが存在していると思っている自分」を認めなければ始まらない。




満たされていないわたしを認めたわたし。


昔から、「美春はいいよね」と言われるのが嫌いだった。

嫌いだからこそ、あえて嫌味で人に言ったことのある未熟な自分もいたほどに。


父にはよく「俺は早くに親を亡くした」「お前の年齢では俺は頼れる人などいなかった(だから頼るな)」「親がいるのは幸せで恵まれているんだ」「甘えるな」と怒鳴られてきた。

わたしはよく父を例えに話すことが多いのは恨んでいるからではない。単純に、わたしにとって彼から与えられたものから得たものが多かったからである。好きではないけれど、かといって、今は嫌いではない。嫌い尽くしたら、別に嫌いでもなくなった。


学生時代からずっと好きでいてくれた男性がいて、その彼も若くに父親を亡くした。

わたしは普段から自分の込み入った話をしないため、表面的なわたししか知らない彼にふと、「美春は恵まれているよ。俺の両親は離婚してるし、その父親も死んだから」と言われたことを今でも覚えている。

改めて、わたしは一生、この人に心を開く日、好きになる日はこないんだろうな、と小さく確信した。


両親が離婚している。身内が亡くなった。

それはわたしが想像もつかないほどに辛かったのかもしれない。

彼の悲しみは否定しない。分からない。わたしは彼ではないから。

かといって、両親が離婚していないこと、身内が亡くならないこと、それらが世界共通の「幸せ」「恵み」「満ちる」ではないのだ。

もっとも、個人の幸せのなかのひとつに、両親が配偶者として揃い、健在であること、それらが入っているかもしれないけれど。


なんなら当時のわたしにとっては、制御不能な父親が健在であることに絶望を感じていて、思春期の親に対する「死ね」を越えた、介護鬱からの一家心中に似た、「もうどうしたらいいか分からない」「楽になりたい」「(力尽きて)死んでほしい」という思いさえあったのだ。


身内を亡くした彼の物差しでわたしを測れば、わたしは幸せであり、満たされているかもしれない。

けれど、わたしは幸せではなかったし、満たされてなどいなかった。


ただ、彼の物差しでわたしを測れば、わたしは幸せでいなければならないし、満たされていなければならない。

もはや、自分の素直な叫びを無視し、半ば強制的に暗示や洗脳している。

自分の物差しで測ったとき、「これは満たされていない」と感知したとしても、他人の物差しと差し替えて測り直して「いいや、これは満たされている」と結論づけてしまっては、そりゃあいつまで経っても心から満たされる日など、一生こない。


本来、わたしの幸せも、わたしの不幸せも、すべてわたしのものだ。

そして、あなたの幸せも、あなたの不幸せも、すべてあなたのものだ。


他国と比べて「日本は恵まれているよ」「幸せな国だよ」と論されるのも、言っている意味は分かるのだ。

けれど、その表現では一度も心に響いたことはない。

むしろ、「あぁ、幸せと感じなければいけないのか」と、今の自分の心に幸せという名の鉄格子をはめられた気分になっていた。

日本の技術や治安、経済、また人を思いやる人の割合など、それぞれ長けているものは確かに多いかもしれない。ただ、幸せという満ちや恵みといった感覚もまたそれぞれであり、発展途上国の人たちが幸せでないとは限らない。満ちや恵みを感じていないとは限らない。

国の経済や技術の発展以上に、心から繋がれる家族や仲間たちと共に寄り添い、生きることが満ちや恵みと感じているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。わたしには分からない。ただ、彼らの屈託・邪気のないまぶしい笑顔を見ていると、こちらも心が豊かになる感覚があるのはたしかだ。

そんな'自分の物差しで幸せを測っている者たち' に感銘を受け、勝手に、自分の物差しで彼らを測り、「恵まれていない」といったレッテルを貼る人もいる。そして、「恵まれていないのに彼らは幸せを感じている」「満たされていない彼らですら幸せを感じている」「日本は彼らの国より恵まれているのに幸せを感じられない乏しい人たち」「日本人はもっと幸せに気付くべき」など、またしても自分の物差しで他人を測ろうとしてしまう。


何度だって言う。

本来、わたしの幸せも、わたしの不幸せも、すべてわたしのものだ。

そして、あなたの幸せも、あなたの不幸せも、すべてあなたのものだ。

誰に何を決めつけられる筋合いはない。そして、誰に何を決めつける権利もない。




他人の物差しで測った幸せは、どこか重たさを感じる。

純粋な充足感というよりも、ずっしりとした責任に近い。

他人の物差しで測った幸せは、どこかで「幸せだと思わなければならない(幸せなはず)」「満たされないければいけない(満たされているはず)」「喜ばなければいけない(喜ぶべき)」と思っている。

なぜなら、他人が軸にあるから。


世間(他人)からしたら、これは幸せ。

世間(他人)からしたら、これは恵まれている。

世間(他人)からしたら、これは素晴らしいこと。


他人から見た幸せであり、自分自身を基準にした自分の物差しで測った幸せではない。

真っ直ぐに言うと、嘘なのだ。

自分が心から満たされていない限り、幸せではないのだ。

'幸せ'とだけかかれた、なにも入っていない空き箱をもって、「幸せ」と言っているようなものなのだ。

幸せなふり、満たされているふり、をしているだけなのだ。


幸せとは、形・形式ある決まったなにかではない。

心の充足感であり、目には見えない。

つまり、共通認識として定義づけすることなど不可能なのである。


自分の物差しで測った幸せは、軽い。

たとえ日々を忙しなく過ごしていても、立ち止まり、一呼吸をおきさえすれば、自分の物差しは見えてくる。

内にある細胞が騒ぎたち、鳥肌、涙、または、ため息となって外へ溢れ出す。

それが、満たされているということなのではないだろうか。


それぞれ自分の物差しで測り、本人が感じる。

それでいいのではないだろうか。

それぞれの自分の物差しで測った幸せを、自分の人生に求める。

それでいいのではないだろうか。



他人の幸せを自分の物差しで測って、他人の人生まで自分仕様にする必要もないし、他人の物差しで自分の幸せを測って、自分の人生なのに他人仕様にする必要もない。

だからこそ、'幸せ'とだけかかれた、なにもはいってない空き箱を望んだっていい。

その箱を求め、得ることで満たされるのであれば。


わたしたちは、自分が本当に求めているものを受け取っていい。

わたしたちは、心の底から満たされたっていいんだ。

そして、満たされることを望んでいないのであれば満たされようとしなくなっていい。


ただもし満たされることを望むのなら、満たされる芽だけは見誤らないように、わたしは自分の物差しを大切にする。

なぜなら、その芽こそが蕾となり、花となり、大きくなるから。


幸せといった充足感は、自分の心を不自由に縛り、閉じ込めなければならないほどの義務や責任はない。

むしろ、自分の心を自由に開かせ、今この瞬間から口角が上がってしまうような、目元や眉間が緩んでしまうような、背負っていた荷がすべて下ろされ楽になるような、そんな柔らかさを運んできてくれるものではないだろうか。