苦労は価値にはなるが、価値が苦労ではない
苦労は自分次第で価値にはなるが、価値とは苦労ではない。
「実際に経験してみなければ、気持ちなんて分からない」
世間ではよく耳にする言葉だし、一見するともっともらしく思えるかもしれない。でも、それは半分正しくて、半分は嘘だと思う。
もし、自分が直接体験したことしか理解できないのだとしたら、わたしたちは自分と違う背景や世界観を持つ人を、いつまでも否定し、傷つけ続けることになってしまうだろう。
かつて働いていた職場で、ある女性から理由のない無視や威圧的な態度を受け続けたことがあった。
二人で作業しなければならない仕事を任され、変わらない彼女の態度に痺れを切らし理由を尋ねた。ところどころしか覚えていないのだが、印象的だったのは彼女の身の上話だった。
彼女の経験した苦悩の歴史を聴き、たまたま同じ経験があったので「わたしも同じような経験をしたことがある」と打ち明けた瞬間、彼女の態度は180度変わった。
わたしを嫌っていた理由は、「なんの苦労もしないで、楽しく生きているように見えたから」だったそうだ。
昔、同じような理由で無視や攻撃された時期もあったが、どの時期も他人に言わないだけでそれなりに苦労はあった。
だからこそ、その時、わたしは激しい違和感とともに、ある強い決意をした。
「苦労を告白することで、ようやく存在を許される」という安易な処世術を、絶対に学習してはいけない、と。
その時は、たまたまわたしが過去に同じ経験をして、たまたま話す流れになったから仲間として肯定され、攻撃がなくなったわけだが、同じ経験をしていなかったら…、していたとしても、それを相手に伝えていなかったら… 、相手からの攻撃は変わらず続いていたところを想像すると、根本的な解決には至っていないのだから。
どんなに自分自身が辛い経験や苦労をしていたとしても、目の前の人の経験や苦労の有無に関係なく、誰かを咎めていい理由にはならない。
逆に、相手がどんなに辛い経験や苦労をしていたとしても、わたしの人生や存在に対する否定的な評価を受け入れる理由にはならない。
健全な境界線を引く、すすめ。
いつも安心感に満ち、愛されて幸せそうに見える人がいる。としよう。
本当は、血の滲むような葛藤を乗り越えてきた強い人なのかもしれない。
あるいは、本当に生まれた瞬間からずっと、苦労とは無縁の道を歩んできた人なのかもしれない。
でも、どちらだっていいじゃないか。
その人がどんな背景を持っていようと、他人がその存在を咎める理由なんて世界のどこを探しても見つからない。
渦中にいるときは苦しかったが、泥臭く向き合って乗り越える自分のことを、わたしは嫌いではなかった。泣きながら、塞ぎ込みながら、静かに自分と対話する時間は、自分自身を深く知るための大切な宝物だったから。
けれど同時に、もしその「泥臭く乗り越える試練」に飽きたなら、いつでも苦労と無縁の人生を選び直していいのだとも思う。
そして、その世界へ進むための第一歩こそが、今、目の前にいる「苦労を知らないように見える人」を、何の後ろめたさもなく心から尊ぶことなのだ。
その人を尊んだとしても、苦労を辿った自分の価値は下がらない。
存在価値とは、この世界で唯一上がりも下りもしない不動のものだから。
冒頭で話した「実際に経験してみなければ、気持ちなんて分からない」の言葉。
この考え方の根底には、本人自身に「自分の経験が全て」「自分の経験以外、正解ではない」といった、想像力に欠けている要素があるのかもしれない。
その場合、(想像力の有無に良し悪しはないけれど、)想像力がない代わりに、現実の経験を通して、ようやく相手の立場に立つ機会を与えられているようにも思う。
「あの時は受け入れられなかったけど、同じ体験をしてあなたの苦しみが分かった」と逆転する言葉を放つ人がソレである。
そして、自分自身が経験しなければ尊重できない人間だからこそ、それ故に、「(全人類も)実際に経験してみなければ、気持ちなんて分からない」と決めつけてしまうのだろう。
けれど、残りのもう半分の人たちは、自分が経験していようがいまいが、豊かな想像力をもって最初から相手を尊重することができる。人には人の正解がある、と想像できるのだ。
それに、物事の見方や捉え方も人それぞれであるため、全く同じ経験をしてもしなくても、気持ちなんて自分以外は分からないものなのだ。同じ経験したからといって、相手と同じ感想を抱くとは限らない。
親友は、一人暮らしの自宅で物取りの空き巣と鉢合わせたことがある。人によってはトラウマになるだろうが、彼女は全く気にしていなかった。
祖母は、父方母方、両方とも正面衝突の事故で被害を受けた。父方の方は二度も交通事故で入院したのだが、一度目でも二度目でも気にせず、退院後、新しく車を購入し率先して車に乗っていた。人によっては車を見るのも恐れるものなのだろうが、こうして人生を通して沢山の人と関わってみると、本当に経験の有無に関わらず、全ての存在がそれぞれなのだと、存在一つ一つの粒を尊重するきっかけにもなっている。
また、存在そのものに価値があるという本質を見失ってしまうと、人は自分が耐え抜いた苦労だけを自分の価値だと信じ込もうとする。
だからこそ、苦労をすることなく最初から存在を認められている人たちを見たときに、理不尽さを感じて許せなくなってしまうのだ。
けれど、自分の苦労を価値に変えられるのは素晴らしいことであると同時に、価値の本質そのものが苦労というわけではない。
どれほどの苦難をくぐり抜けてきたか、あるいは苦労と無縁の人生を歩んできたかという背景は、その人の存在の尊さを何一つ左右しない。勿論、地位や名誉も。
外側に存在の証明書にするのをやめるとき、わたしたちは幸せそうな誰かを咎めることなく、自分自身の存在もそのままに愛することができるのではないだろうか。
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