好きと生きる
私は自他ともに認める気分屋で、一日経つと昨日のことすら綺麗にリセットされる、なかなか都合のいい頭を持っている。
だから毎朝、目を覚まして愛猫の顔を見るたびに「待って、今日のお顔も可愛すぎない!?」と、まるで生まれて初めて珍しい生き物に出会ったかのように新鮮に悶絶しているのだ。寝ている顔をフニフニとこね回し、ご飯を食べる小さな歯を後ろからじーっと眺め、お風呂場まで文句を言いに来た猫に「わざわざ私の居場所を突き止めて訴えてくるの、すごすぎない!?」と本気で感心している。
周りから見れば「毎日毎日、よく飽きないね」と思われるかもしれない。けれど、私から言わせれば逆なのだ。本当の「好き」には飽きはこない。
物が壊れても、形が壊れても、肉体が壊れても、本当の好きは終わりを知らない。言い方を変えれば、終われないのだ。そもそも始まってもいない。何故なら出会ったその日から「もう始まっていた」「知っている」という不思議な感覚に陥るほど、自分の中にあるのが自然だからだ。
今、私たちの体の中で、肉眼で見ることのない臓器が知らぬ間に在り続けているように。始まったのではなく、最初からあったのだ。あるという事実に気づいた瞬間に、私たちは「始まり」を錯覚するのだろう。
本質は、きっと目には見えないところでしか存在しえない。そう思う。三次元のすべては、私の中であふれ、こぼれ落ちたものの余韻に過ぎないのだから。
時代の流行りや周囲の人気、一般常識の範囲で選んだり、年齢や状況、環境といったタイミングの一致で手に入れたものであれば、それは「好き」という魂が響いているというよりも、「好き」以外の条件に響いている。だからこそ、必要に応じてまた卒業を迎えたりもする。
一番分かりやすい例えは、学校だ。全員が全員、ときめく仲間というわけではない。むしろ友情であっても、魂がときめく相手が一人もいないことのほうが普通ではないだろうか。タイミングの一致によって集まった、ある意味で「卒業の美しさ」を知る間柄。いっときを共に学び合う者たち。私は、この寂しさという痛みを背負った美しさが嫌いじゃない。
もう肉体が壊れた祖父や猫たちは、目に見える三次元にはいないけれど、私の内には変わらずに存在している。そして今でも、確かな愛を、確かな満ちを、感じている。
この三次元で五感を通して触れ合っていた頃と本質的な差はない。ただ、本当にわずかな差だとしても、今こうして五感をもって直接感じられることが、やはり涙が出るほどに嬉しいのだ。
ゆっくり呼吸をすることが、こんなにも気持ちがいい。愛している存在の頭や顔を指でなぞり、撫でることが、こんなにも愛おしい。「好きだ」と相手に向かって伝えることが、こんなにも恥ずかしい。けれど、素直に表現できたことが、こんなにも誇らしい。
与えられた、無限のなかにある有限の世界。この贅沢な奇跡の時間を、生まれて初めて出逢ったあの日のような新鮮な気持ちで、今日も明日も、抱きしめていく。
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