存在価値は一定のまま
わたしたちには、存在価値がある。
存在している、という絶対的な価値。
ただ、わたしたちの多くは、もたらされる歴史や情報、教育によって、その個人の存在価値が上下する、条件を満たした上での評価から決まる、ような気がしてしまっている。
それは、形ある財産や資産を得たり、社会的地位・信用を得たり、(他人よりも)容姿を綺麗にしたり、人に感謝され、人の役に立つことで、ゼロの存在価値に、ポイントとして加点されるような。
または、借金や逮捕歴があったり、社会的地位・信用を失ったり、(他人よりも)容姿が劣っていたり、老いたり、人に迷惑をかけることで、ゼロの存在価値に、さらにポイントとして減点されるような。
存在価値に対して、わたしもそうだと思っていた時期も長かったし、わたしを育てた親も、そのまた親も、そう信じていた。
価値を、認めてもらわなければ。
価値を、感じてもらわなければ。
減点されないように。
加点されるように。
わたしたちは、無意識に、世間が認める条件を満たし、承認といった評価を得てこそやっと生きられる、と思いこんでいた時代を、長く長く生きていたのかもしれない。
けれど、今のわたしが感じる存在価値は、なんらかによって、上下なんてしない。動きなんてしない。変わりなんてしない。
肉体として生まれてから死ぬまで、そして、生まれる前と死んだ後の魂の状態であっても、存在価値というのは一定である。ということ。
存在価値とは、この変わりゆく世界のなかで、唯一の不動。
最初から最後まで、
生まれる前からずっと、
死んだ後もずっと、
存在価値は、崇高な位置で、永遠に保たれている。
わたしはよく、優しい、と言われる。
特別意識しているわけではないし、もちろん無理しているわけではないけれど、「優しさこそが、わたしの価値」だとも思っていない。
ただ、「優しさこそが、わたしの価値だ」と、わたしが思いこんでしまえば、人にNOを伝えるとき、人に怒りを向けるとき、余裕がなく自己中心でしか在れない状態に陥ったとき、罪悪感が沸いてしまうだろうし、わたしの存在価値として支えている理由である「優しさ」に執着し、手放せずに、無理してしまうだろう。
優しさは、わたしの一部・一面、ではあるかもしれないけれど、わたしの価値の理由ではないのだ。
だからこそ自由に、どんな人の前でも、どんな状況でも、NOと思えばNOと言えるし、嫌われる可能性があったとしても、自分がしたいと思った対応や行動ができる。
わたしの存在価値に、理由なんてなくていい。
存在価値となる理由に、不自由に囚われたくないから。
わたしは、わたしであることに価値がある。
あなたも、あなたであることに価値がある。
わたしたちは、わたしたちであることに価値がある。
存在価値に理由を求めるならば、ただ存在している、だけで充分だ。
わたしがどんな選択をしようとも、
わたしがどんな姿で在ろうとも、
わたしがどんな状況にいようとも、
わたしがどんな物を数を所有しようとも、
存在価値は、上がりも、下りも、しない。
崇高の位置のまま、永遠に変わらない。
わたしは、この存在価値を感じるとき、絶望にも似た、限りない安堵によって、わたしを縛ろうとする条件や理由たちが肩から荷がおり、脱力する。
努力をすること、向上心をもつこと、成長していくこと、改善していくこと、これらは、点数稼ぎのために必要はないけれど、内から溢れる本能に従った先に、それらの過程を踏んでいた、と、結果論として振り返ることはできるのかもしれない。
それに、加点や減点で上下する存在価値の世界線も、悪いわけではないし、存在しないわけではない。
この世界とは、個人の意識の選択によって創造できる、自由そのものだから。
わたしが選んだ世界は、存在価値は常に一定である世界線。というだけの話でね。
0コメント