嫉妬って


「嫉妬されているんだよ」

自分にとって心地いい反応をしてくれない人がいるんだと相談すると、こんな風に返されたことはあるだろうか。

きっとそう伝えてくれる人は、自分に心地いい反応をしてくれない人に対して、自分が自分に、日頃からそう言い聞かせているのかもしれない。


嫉妬自体、悪ではない。そして、善でもないのも分かる。

ただ、嫉妬ってなんなんだろうなぁ。

そんな風に考えた日があった。

(恋愛によくあるヤキモチじゃなくて、)



わたしは、嫉妬という想念は好きじゃない。

嬉しくないし、純粋に、全く価値を感じない。


けれども、「嫉妬されてナンボ」と捉える人もいれば、「嫉妬されるが勝ち」と捉える人もいる。

中には、嫉妬という想念を力に変え、自信として積み重ねていく人たちもいる。それはそれでいい。本人が生きやすくなるのなら、ありなのだと思う。



そんな嫉妬の良し悪しは置いておいて。


わたしは、嫉妬される、も、嫉妬する、も、同じ存在だと感じる。

表裏一体。同一。

つまり、嫉妬されるということは嫉妬しているということ。

互い・双方を対象にしている場合もあるけれど、嫉妬されている人とは別の人に嫉妬している場合もある、という意味で。



嫉妬の本質は、他人に意識が向いているかどうか、なんじゃないかなぁって。


嫉妬されている、と感じるのも、常に他人に意識が向いているからこそ、大なり小なり反応を敏感に拾えるのだろうし、嫉妬している、と感じるのも、他人に意識が向いているからこそ、大なり小なり違いを敏感に拾えるのだろうし。

たとえ一方的に、それが一瞬、嫉妬されていたとしても、嫉妬を受けている当の本人の意識が他人に向いていなければ、嫉妬されていることにすら気づけない。

これまで他の人に嫉妬してきたように、はじめは彼らにも嫉妬していた(できた)かもしれないけれど、受け取り手に「嫉妬」という想念、「他人への意識」への執着がなければ、嫉妬を通して対等に引き合うことはない。

ある意味、精神的に対等ではないからこそ、はじめは生まれた嫉妬心も、時間の経過と共に、素直に降参できてしまう。その対象に対する嫉妬の想念は消え、嫉妬を越えた存在への尊敬が生まれる。


嫉妬する。嫉妬される。

この二つが成立・存在できるのも、本人の持っている想念によるものである。

嫉妬されるも、嫉妬するも、そう感じたり、そう受け取れるのは、方向性は違えど全く同じ意識を共有し、精神的に対等に結びついている証なのかもしれない。



いい意味で他人を踏み台にし、成長していく。

それは、比べる対象がいてこそ漲る力。他人よりも勝ることで、自分の立ち位置を知り、自分の価値を確かめ、高めていく人たちにとっての「嫉妬」は、するのもされるのも原動力でもある。

現に、嫉妬されている、と認知することで快感を得たり、喜びを感じたりしている人もいる。

はじめにも言ったけれど、本当に良い悪いはないのだと思う。


嫉妬という想念との相性は、人それぞれ、向き不向きの問題なのだろうね。



嫉妬されることに快さも喜びも感じないわたしは、他人を介して自己価値を高める在りかたが、単純に向いていないのだ、と自分自身の性質を知った。


他人に対して、他人がもつもの(環境も含めて)に対して、羨ましいな、良いな、と感じることは今でもあるけれど、「わたしにはないんだ」なんて他人と自分を分離(絶望)させずに、素直に取りいれる術を得てからは、感情の扱いが楽になった。


嫉妬、という他人を介さなくても、価値を高めていくことも、成長していくことも、可能だった。


必ずしも、辿る道はひとつとは限らない、と知っているだけでも、その自由さが安心をもたらしてくれたりするよね。