優しさ


不特定多数の人と会話する機会が与えられている今は、第三者視点でいろいろな人を観察できていい。

わたしの中で、「人を心で感じる」作業はものすごく大切で、良くも悪くも必要なのだと実感している。


'わたし'を通して人生をかけて取り組みたいことは、「心」に触れるということ。

それは直接的であってもいいし、間接的であってもいい。

心が揺れるような、そんな取り組みを毎瞬できていたらいいな、といつも思う。


不特定多数の人との会話に細かい条件は必要としていない。

別に、隠しや誤魔化しはしないけれど、より個人的な自分を差し出すことがないから、相手に対しても細かい条件は特にない。まぁ、ざっくり大まかな条件はあるくらい。


私生活では、優しさが絶対条件だ。

その優しさには、思いやりや歩み寄り、柔らかさなんかも入っている。

言葉そのものの選択だったり、使いかた、タイミング、が優しさに包まれて発せられているものでなければ、わたしは受けとれない。受けとりたくない。

趣味嗜好がまったく違くたって、そういった根本の感覚や感性が同じであれば互いに理解し合ったり、吸収し合ったり、拡大成長できる。

逆にその根本で違和感があるのならば、我慢や忍耐といった苦行にしかならない。


血の繋がった家族は自分では選べないけれど、パートナーや私生活のパーソナルな人間関係は、'与えられた家族'からの経験を活かして、自分自身で自由に選ぶことができる。醍醐味だ。

わたしは、幸せになる権利があるし、心地よいと感じる権利があるし、安心し味方に囲まれる権利がある。

自由に選べるようになった大人になってまで、自ら「優しくならないほどに追い詰められた環境」を、わざわざ選ぶことなんてしない。


わたしは優しさの塊なんかではない。でも、平等に優しさはもっている。

大好きな人たちに優しくできる自分を保つために、わたしの価値を分からない人、わたしに優しくない人を排除する。

そこに迷いはない。