普段から睡眠時間は長くとるほうだ。

そんなわたしでも一六時間くらい眠らなければもたない日が三日間ほど続いた。起きたても眠くて、運転していても眠くて、とにかく眠いときは、もうそのまま眠るようにした。


彼と会ったあとの数日は、いつも泥のように眠る。

ただ、今回の眠気は異常である気がしてしまうほどだったのだ。十分な睡眠時間であるはずなのに、もう目を開けていられなかった。脳が思考を始めるのを強制的に停止させるように。

体調不良ではないのだけれど、なんだか食欲もなかった。はじめて買ったコンビニのブリトーも、食べたい気持ちにならないまま助手席のドア側の隙間へ落としてしまい、温めが必要なのに温めてもいない、封も開いていない、未熟なブリトーは未だにわたしの車のどこかに潜んでいる。そうだ、打っていて今、思い出した。あのブリトーを回収しなければならない。

ハイとローが同時にある不思議な感覚で、「これは、恋煩いかな」なんて思うと同時に、「十年の仲でも、純粋にこの人に恋をしてるんだな」と、自分と彼に感心した。


彼に関しては、彼の外側にある装飾に惹かれ惚れてるわけではない。

なぜなら、わたしは彼の外側をあまり知らない。いろいろと聞いてはいる。ただ、意識的に内側に留めておかないようにしていた。

知れば、もっと尊敬したり、もっと魅力的に感じたり、大きな燃料にはなるのかもしれないし、実際になっているのだけれど、それらが火そのものではないと理解している。



わたしの中で、彼に対する火が宿っている。

彼の中で、わたしに対する火が宿っている。


薪もない。紙もない。屋根もない。暖炉もない。

けれど、なにもないわけではない。

むしろ、火が宿っている。その火が交わっている。

これ以上に、小さく、そして無限の可能性を秘めている豊かなものはあるのだろうか。


「在る」

これが事実として不動にあり、結局、この1が全てなのだと思い知る。

1がなければ、100にもなれないのだから。


1を肯定すること。

1の価値を理解すること。


そうすることで、1と100,000,000、∞、の価値は同等であることに気づき、いや、もしかしたら少しだけ1の価値のほうが上回るのかも知れない。


好きな気持ちは、十年前の出会った頃と今とで、なにも変わらない。

関係、時間、距離、連絡頻度、年齢差、喧嘩の有無、性質や価値観の違い…、なにも、なにも関係なかった。

火は消えなかった。意図的に消そうとしても、いつか自然と消えるだろうと放置しても、消えなかった。

以前は、この火を見つめ、「この火が原因で何かが起きるのではないか」「わたしが灰になるのではないか」と恐怖にかられていた。

けれど今は、火の本質でもある、*暖かさ* と *安らぎ*、*少しの緊張感* を、そのまま受け取れるようになった。


薪も紙も、屋根も暖炉も、火がなければ意味はない。

火がある前提で、それらはあるのだ。

二人に同じ火が宿っている。これがすべて。

薪も紙も、屋根も暖炉も、あってもなくてもどちらでもいい。

本当の価値に目を向けられる自分で在りたい。


創造と完成の顔をもつ、種と花の顔をもつ、絶対的な1の価値を知り、この豊かさでわたしの中のすべての細胞が満たされる。