ほしかった、よかった


この対峙のとき、というのは、七年くらい前かなぁ。

わたしの時間の感覚に重きを置かなくなってから、本当に分からなくなってしまった。

昔は夢の内容まで記憶するほどだった。

今の感覚的に、極端に言えば一年前と昨日が同じ場所にいるというか。

なんなら、過去と妄想空想が同じ場所にいるというか。

だから、七年前というのも大体で、定かではない。


「穴」という詩をかいたのは、そのあたり。

満たされるとか、楽しいとか、幸せとか、その感情を貪欲に追いかけた。

よくある自己啓発的な、今あるものを数える、アフリカの子どもとの暮らしを比べる、そこからの「生きているだけで幸せ」「家族がいるだけで幸せ」「衣食住があるから幸せ」といった表面的なとってつけたような、言い聞かせるような、概念的な幸せや満ちではなく、自発的に自動的に、自然に溢れるような感情が欲しかった。


わたしの知っている幸せは、自分や相手から言い聞かせられなくても、諭されなくても、なんだかよく分からないけど勝手に湧いてくるものである。

概念的な幸せは、幸せごっこ、のように思えてしらけ、また虚し


追求して数年。なんだか無条件の境地に行き着いた。

個人的に、無条件、自然、がわたしの人生のテーマなのかと思うくらい、自分の言葉で出てくるのだけど、やはりここに行き着いた。

毎瞬、なぜかよく分からないけれど心からの幸せや満ちを感じられるようになった。

わたしが求めている、それだった。恍惚は実際にあった。

それまでの渦中、鬱っぽくなり、捻くれ、塞ぎ込んだ時期も長かったけれど、「この状態のわたしですら、価値は変わらない」と信じて疑わなかったし、明るいわたしと暗いわたしに価値の差をつけるようなことはしなかった。


けど、それはお金があるから、豊かな暮らしができるから、好きな場所に行けるから、とか、(世間で言われている)大それたことが理由ではないし、家族がいるから、とか、命があるから、とか、空が青いから、とか、(世間で言われている)ささやかなことが理由でもない。

そのどれもが大でもなく小でもなくニュートラルに存在し、そのどれもが幸せな理由にはならない、ということ。

理由にはならないけれど、幸せの一部であることには違いはない。

こうして文章に書くと、わたしが思う真実はいつも矛盾していると思う。


心から幸せであることが自然。心から満たされていることが自然。

わたしは、そうでないときからずっと信じていた。

なぜか分からないけど、そうだと信じていた。

だから、そうではない自分の精神状態に疑いをもち、未知の海に飛び込んだ。


何よりも欲しかったものを手に入れた。

真実は、飽きることがない。冷めることがない。醒めることもない。


表現がうまく見つからないけれど、なんか、ただただ嬉しい。