透明な執着
彼がいないと生きていけない、なんてわたしが言いだしたら彼はどう思うだろう。
最近、彼と執着の話になった。表面的な性質でいうと、わたしたちは正反対である。
彼は大地だ。木々や花々、動物たちが安心して暮らせるような。根づく豊かさを育てるような。そんな器がある。再現性もある。責任感もある。実際に社会的にも立場がある。
彼が大地なら、わたしは空か海だろう。雲も波も、一瞬でも目をはなしたら、一秒前とは姿形が変わっている。安定などしていない。別にそれが悪いわけじゃない。むしろ、それでこそ空であり海である。瞬間に価値を宿し、うつろう豊かさを体現している。不安定さが安定であり、わたし自身、その状態を仕事にしているといってもいい。
彼と出会った当初、情緒不安定だよね、と言われていた。もう七年近く前になる。今この瞬間のわたしの年齢が、出会ったときの彼の年齢に追いつきつつあるほど時間が経っているのだから、彼は疾うに忘れ、覚えてもいないかもしれないけれど、わたしは覚えている。
当時から常に自分の気持ちを伝えていた。喜怒哀楽、のすべてを。わたしにはなるたけ情緒の隅々まで伝えきりたい欲求がある。定期的に、iPhoneを何度かスクロールしなければいけないほどの長ったらしい文章を送っていた。昨日と今日とで、午前中と午後とで、まるっきり言っていることが違う、なんてのも多々あった気がする。そして後日会ったときに、わたしの様を、怪奇、と彼は表現した。とはいえ、どこか楽しそうではあったので不快には思わなかった。けれど、わたしは忘れてはいない。
自分自身を執着のない人間だと思っていたし、たしかに今でも思っている。
どんなにお気にいりの陶器が粉々に割れても落ち込みはしない。まぁ一言、あーあ、とはこぼすだろうけれど。
わたしの元から誰が去ったとしても、戻ってきてほしい、と気に病んだこともない。相手が親であっても、親友であっても。彼であってもそうだった。心から愛する者全員、一度はわたしの元から去っている。そして、彼らのうしろ姿を受け容れた。
彼は彼で、執着が強い自分に思うことがあったようだ。ただわたしから言わせてもらうと、ある意味で執着があるからこそ、最後まで、形になるまで、肉体をとおして得られる快感にたどりつくまで、成し遂げられる力へ変わるのではないか。と、わたしにはない執着から得られてこそ見れる景色は、きっとある。
'わたし'でさえもその一部だ。多分、彼の三次元的な執着がなければ、今の分かち合う二人はいない。もし、'わたし'が彼の執着から完全に放たれ、手放されたら手放されたで、抗いもせず、行くあてもなく、ゆらゆら、どこまででも流れていっていただろうし。
、なんて、執着がない側の人間として話してはきたのだけれど、実は、わたしほど執着をもった人間はいないかもしれない。ふと思ったのだ。
わたしは彼がいなくても生きていける。彼が死んでも、たとえ生きていたとして彼ともう二度と会えなくても、生きていける。そう、形、姿、肉体、の話だ。
ただ、わたしの心から彼がいなくなってしまったら。心さえも制限され、不自由に縛られたなら。おそらく、もう生きてなどいけない。ほどの弱さを抱えている自分にも、うすうす気づいている。
目には見えなくてもいい。手では触れられなくてもいい。今、心に、わたしが勝手に描く彼がいてくれているからこそ、目の前のすべての出来事に抵抗もせず、行くあてもなくとも、ゆらゆら、ふらふら、どこまでもどこまでも、あるがままに流れることができるのだ。
わたしが自由で在れるのは、なによりも重く、なによりも軽い、透明な依存と透明な執着によって支えられているからなのかもしれない。
いつも、いつだって、透明ななにかに支えられている。 わたしは透明と相性がいいのだろう。
彼は言う、いつも。いつでもかえっておいで、と。
わたしはかえる。いつも。いつでも。透明な彼のもとへ。
追記;彼の記事を書くと、彼は丁寧に読んでくれている。わたしは気分で、不意に記事を消す習性があるのだけれど、「それ(わたしの癖)を見越して、Iphoneのメモに残している」ようなことを言っていた。なんか分からないけれど、嬉しかった。
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