自由
対人関係で完全に自由で在りきることは、わたしにとってはとても難しかった。
昔から、基本的に七割ほどは自由で在らせてもらっているけれど、どうしても残りの三割ほどは他人に合わせてしまうわたしが拭いきれない。そして、そんなその残りの三割すら越え、対人関係において完全に自由で在りたいか、といえば、わたし自身、そうでもないようなのである。
人といること、人と話すこと、人と関わることは嫌いではない。多分、好き。
ただ、「人が好き」と言えるための容量は決まっていて、その一線を越えてしまうと一転し、「人が嫌い」「関わることが嫌い」となってしまう。こういった対人関係に費やすエネルギーに容量があるのも、わたしの中にいる三割の「完全に他人に合わせてしまう自分」が影響していることも知っている。
相手が求めている人物像に無意識になってしまうのだ。わたしがない。わたしがいない。無色透明で、何者にもなれてしまう。幼少期は、その無自覚に相手と同調してしまう性質から、人間社会でいう小さな罪を犯したり、そういったものに加担したり、自我も、倫理観や正義感のかけらも、何もなかった。流れる三次元のままに染まった。良いだとか悪いだとか、分からなかった。常に目の前の相手の意識と同化し、一部となっていた。
この性質は完全に相手と溶け合うため、わたし、美春、自我、がいなくなる。実際にいなかった。自分自身がいないが故の苦しみを覚え始めたのは十代半ばごろで、このあたりから自分自身かいないが故の不自由さにもがき、自由を求めて歩き出した。
わたしがわたしで在る。純粋なわたしで在る。
いつも、どこでも、誰の前でも、どんなときでも。
それができれば、わたしの理想とする、完全に自由なわたしでいられる。
自由を求めて歩き出したわたしの前に最後に現れたのは、三割を占める、目の前の相手の意識と簡単に同化してしまうわたしだった。しばらくの間、どうやって、その "わたし" を消そうか、手放そうか、闘おうか、手こずっていた。
けれど、ありのままのわたしの一部に、コントロールができないほど無自覚で無意識に「他人と一体化する」「憑依する」「染まる」わたし、が存在しているため、どうしたって対人関係において完全な自由を味わうことができない、その事実に降参した日があった。
悔しさやもどかしさはない。この中途半端で曖昧な判断も、自分にとって自然であるとさえ思う。納得している。
ただ、対人関係の在りかたに悔しさやもどかしさはないけれど、"純粋な自由" への未練はある。その対人関係で自由で完全に在りきれない未練が力をもち、力に魂が宿り、今、わたしの創作物が生きている。
だからこそ創作物である彼らは、絶対に、完全に、自由で在らなければならない。本当の意味で枠を越え、すべての目、声、想念、を越え、誰にも合わせず、誰にも寄り添わず、誰にも気を遣わず、誰にも与えず、すべてを振り切り、自由で在らなければならない。わたしから生まれた彼らの存在意義は、"純粋な自由" にある。
わたしが表現や創作をするということは、たくさんの糸で絡まった不自由なわたしを救う、唯一宇宙を感じられる場所に出会うということ。
評価だとか、承認だとか、理解だとか、そこへのこだわりは無い。こだわっていられない。というよりも、そもそもの意図が違うのもあって、意識の土俵が違う。
評価も承認も理解も、もちろん、あればありがたい。けれど、なくてもいい。
わたしが「価値がある」と歓喜する基準が、どれだけ自由で在るか、どれだけ純粋で在るか、にあるからこそ、そう言い切れる部分はある。
世界中で花やぐ、素晴らしいと感じるものは素直に素晴らしいと感じていたいし、感動したものは素直に感動していたい。
わたし以外の領域でどんな創作物が世に溢れていようと、わたしの創作物の価値とは関係ない。
わたしが、わたしに対して純粋で自由で在れているか。
わたしがわたしの創作物に対して気にかけてあげられるとするのなら、きっとここだけ。
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