長い序章


わたしが人を両手放しで無条件に愛せる期間は、三次元感覚でいうと約六年のようだ。

この期間を長いと思うか短いと思うかは、あなた次第ではある。


無条件の愛といえば無期限のように連想するけれど、わたしはそうではない。はじめの六年ほどは、わたしの器にある元々の自分自身の愛によって与えるため、無条件に相手に与えることができる。それも、完全なる無条件だ。

相手の反応など関係ない。相手の様子など関係ない。

「与えたいから与えている」「好きだから」「理由なんてない」

見返りなど求めず、内側に溢れている分の愛情を全力で表現していく。それはまるで戦車のようだ。


最近、一つの恋、一つの愛、を失った。

失ったというよりも、わたしの中から消えた。そして、消した。

無条件に愛していると思っていたはずの存在を無条件には愛せなくなった。そんな熱を失った自分に寂しさを覚えつつも、「そうか。わたしの無条件の愛は、約六年の条件付きなのだな」と理解し、この条件付きの無条件の愛のはたらきを静かに受け入れている。


ただ、本来、人間関係とはそういうものなのかもしれない。

「どちらか一方が受け取るばかり」と「無条件の愛」は相性が悪い。共存できないのだ。

健全な人間関係は、互いに同等に与え合ってはじめて成り立つ。

それに、わたしは神仏ではなく人間だ。神のように無条件の愛があってもいいけれど、その無条件の愛に条件をつけてもいい。そう思っている。でなければ、共に学び合う、人間として生まれた意味がない気さえする。


どちらかが相手の愛情や行為に甘え、自分は受け取るばかりで相手に与えようとしなければ、その物語の行方は、卒業か共依存か、このどちらかだけである。まぁ、愛の覚悟をもって自ら選択する忍耐であれば、例外はあるかもしれないけれど。

親密な関係性のなかで、甘えという適切な依存を経験して大人になる。子は親にあるがままに甘え、親も子のあるがままを受け入れる。

あたたかな安心基盤を築くためにも、依存は悪ではないと唱えたい。甘え、甘えられ、頼り、頼られ、委ね、委ねられ、「頼ってもいい」「甘えてもいい」「信頼していい」「心を開いてもいい」という心の基盤をつくる上での大切な過程だ。

そして、この依存心が満たされた人間は、無条件に人を愛し、無条件に人に与えることができる。

ただ、共依存までいってしまうと、安心基盤よりもぬるま湯といった表現のほうがしっくりきてしまうかもしれない。共に、成長の痛みを避けることができる。



わたしの '無条件の六年' は魔法の時間だ。

愛しいと感じる存在に出会ったとき、無自覚・無意識で自分の器に入っている愛を大開放する。数年に一度の稀な儀、まさに御開帳だ。その御開帳の期間が、約六年なのである。結構長い。

六年の月日は、参拝側的にも「開いていて当たり前」になった頃でもある。そのあたりで突然、閉まる。御本尊側も.「あ、今?」と閉じた扉に驚く。タイミングは宇宙のみぞ知る。


「美春を信頼している」

彼は言った。

「そうだろうね」

わたしは思った。


嫌味ではない。素直に納得した。

なぜなら、この数年、わたしは心から愛情表現をしてきたし、彼にはわたしのすべてを嘘なく正直に放ってきたからだ。わたしにとって彼にとって不都合なことでさえも、すべて伝えてきた。好きも嫌いも、ごめんなさいもありがとうも、心で思っているものはすべて。好きだから心を開いてきた。

だからこそ、彼がわたしを信頼しているのは分かる。けれど、わたしは彼を信頼していなかった。疑っているとも違う。純粋に、信頼・安心する材料が全くなかった。彼から与えられなかった。与えられはしなかったけれど、条件なく好きだったので嫌いになる理由にはならなかった。魔法の時間が切れるまでは。

「美春を信頼している」と言われて嬉しくなかったのは、魔法が切れ、無条件という仏フィルターが外れた '生身の人間のわたし' が存在している証明でもある。

嬉しくなかったのも、両思いではなかったからだった。好き嫌いの両思いではなく、わたしは彼を信頼していない、信頼の上で対等ではなかったからだった。

わたしが彼を好きでいれたのは、彼から与えられ、互いに育んで積み重ねてきた信頼関係から生まれた愛が原動力ではなく、わたしが元々もっていた愛の貯金を切り崩していただけだった。切り崩しつづけるだけで新たに入ってこないのだから、六年かけて、綺麗さっぱりなくなった。


愛の貯金がなくなったことへの憎悪だったり、なくなることへの恐怖や嫌悪はない。

わたしは元々そういう性格なのである。計算や調整などできない。そして、極端だ。あるなら使う。ないなら使わない。それは愛だけでなくお金にも直結していて、わたしの人生、愛もお金も同等である。愛もお金も、あればある分だけ与え、なくなればまた新たに生み出せばいいよね、そんな賭けともいえる選択の連続こそわたしの人生だ。馬鹿らしいけれど、それがわたしなのだから仕方ない。

これまでの彼の反応や彼の態度などを気にせずに入れたのも、きっとここにある。

「わたしが好きだから」

戦車やブルドーザーのような勢いで、無条件に愛を放てた。

思考を放りだし、ただただ、今の自分の感情に従った。後悔なんてあるわけもなく、これだけ自分以外の他人を想えた経験はわたしを強くさせてくれた。

けれど、無条件で愛せる器の期間の六年、魔法の時間が切れた。ないものはない。ただそれだけだ。



魔法が切れた今、彼は自分に嘘をついているように見える。

魔法が切れた今、彼は傷つくのを恐れているように見える。

魔法が切れた今、彼は受け取りたいだけのように見える。

魔法が切れた今、彼は必要のないものまで得ようとしてるように見える。


そう見えるほどにわたしが変わってしまったのか、本当は彼が元々そうだったのか、それは分からない。

前と同じように彼を見ようとしても、どうしても見れない。嫌悪や反発が出てしまう。これまでにない感情に自分でも驚き、疑い、何度も気持ちを確かめようとした。それでも変わらなかった。


好きだった。

なにが好きだったかは分からない。出会った当時から分からなかった。わたしにとって彼の表面的なものは信じるに値しないものばかりだったけれど、本物である気がした。彼の奥の魂だけを見ていた気がした。だから、理由がなかった。できることなら、ずっとこのまま好きでいたかった。

ただ、今のありのままの彼を見ずに、奥にある魂の彼を見て愛しつづけるのは、彼にもわたしにもよくない、そう悟った瞬間があった。今の目の前の彼を見て判断する。わたしは、目の前の彼に惹かれない。

この文を読んでくれた彼は、なんだか怒っているようだった。もちろん、気分がいいものではないからこそ分からなくもないけれど、考えなしの勢いで書いているわけではない。

どうでもいい相手であれば、嫌われずに済むよう優しい嘘で誤魔化したり、黙って立ち去ったほうがこちらとしての痛手も少ない。今、分かっているのはわたしにとって彼はどうでもよくないからこそ、嫌われる、傷つける、この可能性も受け入れた、綺麗事のない本音を言葉にしたかった。

わたしは、今の彼の冷たさや怒りを受け入れない。わたしのものではない。それは彼のものだ。彼の冷たさは、まるで傷ついた心を瞬間冷凍させているような、そんな冷気を放っている気がした。決してわたしが傷つけたわけではなく、彼自身がいつかの傷そのものを凍らせ、そしてそれをずっと大切に抱えているように見える。



魔法が切れてからが真実である。

魔法が切れた、ここからが二人の実像だったのかもしれない。本当は交わるはずのない縁だったのかもしれない。魔法がなければ維持できない関係なんて本物じゃないから、それで良かったのかもしれない。


こうして文章で昇華すると前に進める。一つの物語として区切りをつけることができるのだ。いつだって、すべての恋から受け取っていきたいし、すべての恋をわたし色の形に変えていきたい。

今度は、失う愛ではなく、育む愛から、言葉に色に形に、できたらいいな、そう思いながら、見て触って感じて味わったあのすべてを、わたしのなかにある心の絵本として閉じ込めた。


わたしのなかにある、心の絵本。

そう、これは長い序章だった。ここからはじまる。