安息の地


心からの満ち、すなわち幸せを感じた記憶が極めて少なかった。

この事実にはあえて触れず、見てみぬふりをしながら生きてきたが、いよいよ対峙のときがきた。ある日、「もう必要な材料は揃った」と言わんばかりの逞しい鐘の音が内で響いた。


話は幼少期に遡るが、いま思えば、対峙に至るまでの旅はもう既にここから始まっていたのだと思う。

わたしは保育園の登園バスに乗っていた。ディズニーキャラクターのドナルドが描かれている、青いバスだった。(お気に入りだった)

鶴岡の曽祖母が亡くなったあとの久々の登園で、次々と展開していく窓の外を見ていた。背景を数えるように、ただ見ていた。しかし、通園ルートも景色も、目新しいものなどなにもないはずなのに、あの日のわたしにとってはいつもとは違ったように見えた。

身内が亡くなり、初めての感情、'切なさ' に出会ったからだろうか。精神的に見ればそれも間違ってはいない。間違いではないのだが、これまでと違った感覚は、決してそれだけではなかった。

精神的ではない、物理的な変化を感じた。世界が止まってるとでもいえばいいのか。いや、世界は変わらずに動いている。ただ、その世界の動きに熱や温度、生命を感じない。無機質に機械的に動いている、だけ。たしかにあるんだけれど、ない。そう、ないのである。

わたしはこの矛盾した不思議な感覚を今でも肌で受け取る瞬間が度々ある。だからこそ、はじめてこの感覚を認識した、あの登園バスでのワンシーンを忘れられないでいるのだ。いや、忘れるまいとわたし自身が決め込んでるのかもしれない。


涙は出なかった。というのも、まだ死と悲しみが連動していない。わたしの幼い心はまだ概念に支配されていないため、手付かずのそのままだった。つまり、概念の支配を受けない心は自由であり、そして、幸せだった。

「いなくなるって?」「なくなるって?」「死ぬって?」「ひいばあちゃんって?」「なに?」「なんで?」疑問で渋滞していたわたしの頭の中とは裏腹に順調もいいところ、あっという間に園に着いたのだった。


*


「あ、心から満たされるってないかも」

二十代の中頃、ふと思った瞬間があった。逞しい鐘の音が内で響いた瞬間でもあった。


一瞬一瞬の満ち… たとえば、親友と盛り上がる、恋人と触れ合う、好きな音楽や演劇を味わう、新しい場所・人たちとの出逢いを通じて湧き起こる温かな感情。それらは日常的にある。

とはいえ、その満ちは一瞬であり、永久に持続するものではない。【あの一瞬を記憶として残し、何度でも再生して満ちを呼び起こす】という意味では永続性はあるのかもしれないが、結局のところ、対象事象があって成り立つ *満ち* であり、ある特定の人物、特定の結果や出来事が、幸せの条件として必要不可欠であることには変わりはない。

わたしは、自身のその/満たされかた/に限界を感じた。この感覚のままでは、いずれわたしは折れてしまう、死んでしまう、消えて亡くなってしまうだろう、と恐くなった。


*


朝の一杯のコーヒーが幸せ。では、そのコーヒーが飲めなくなってしまったら。もう二度と訪れないとしたら。わたしたちは幸せにはなれないのだろうか。

大好きな恋人がいることが幸せ。では、その恋人が他の人と浮気をしてしまったら。もう二度と帰ってこないとしたら。死んでしまったとしたら。わたしたちは幸せにはなれないのだろうか。


なくなるなら代替の幸せを用意すればいい、なんて意見もあるかもしれないが、わたしが求める *満ち* はそうではない。

わたしが求める *満ち* は、目の前の事象に依存しない、絶対的な在り方にあった。


…であれば、満たされる

…であれば、幸せである


世界がどういう姿形を見せたとしても、わたしの幸せとはなんら関係ない。目の前の世界になんの意味もない。無関係ということは透明であることに等しい。それらはただの幻、煙、蜃気楼。有って無いようなもの。

蜃気楼によってわたしが満たされることは決してないのだ。無条件に絶対的に満たされているわたしが蜃気楼の中にいるに過ぎない。誰も何もわたしを幸せにすることも不幸せにすることもできない。わたしすらできない。なぜなら、わたしは最初から満ちそのもの、幸せそのものであるから。


すべてにおいて夢見るだけでは終わらず、誰でも何でも実現し、手に入れられるようになってきた現代社会。

他人が持っている小さいものから大きいもの、才能、財産、容姿、地位や名誉、それらを簡単に見聞きできるようになった時代だからこそ、他人と自分を重ね、幸せになるためにそれらを得ようとする、させようとする、現代社会の流行りがある。


たとえ幸せになるために得たとしても、有るうちは幸せかもしれないが、それらが無くなってしまう恐怖、幸せであるために必要だと信じてやまない執着は、わたしが思う *満ち* とは別次元にある。


こういった条件付きの幸せは、本当の意味で幸せではない。いうなれば単なる一瞬の快楽であり、刺激反応であるからだ。

「満たされるためには、ーでなければならない」という条件は、得た特定の刺激に依存させ、一瞬の達成の快楽を与えては直ぐに姿を眩ます。そして、わたしたちはまた追いかける。常に「満たされるために」という目的をもって、ゴールのないマラソンをしているようなものだ。


求め、走りつづける必要なんてなかった。

わたしは、自分の世界がどうであろうとも平気でいたい。

どんなものも、どれだけのものも、有れば有るだけ嬉しい。でも、無ければ無いでも幸せでいれるわたしでいたい。

有るにも無いにも左右されない、干渉されない、絶対的な安息の地こそがわたしそのものであり、満ちの源泉であることを忘れない自分で在りつづけたい。