出雲と章


十月。二泊三日、出雲へ。


いつの間にか出雲へ来ていた。

出雲へ行きたい、と思ったわけではなく、というかこれまでの人生一度も脳裏に過ってすらなかったのだけれど(コナンを見ていると出雲や島根の回があって、「なんだかんだ毛利一家は旅行に行ってるなぁ、」とは思った。)、五月くらいに「秋に出雲に行こうよ」なんて誘われたので何も考えずにいいよと答えた。

そして、いつの間にか現実になっていた。


手配も何もしていない。ホテルも航空券もレンタカーも、なにもかも手配してくれたものに従って、わたし自身、なんの計画も立てずに行った。

「美春が行きたいところ、全部行こう」と言われてはいたのだけれど、計画性がない性格のため、当日の空港で行きたいところを調べ始めた。


ただ、出雲大社に行くのなら絶対に朝一番がよかった。

神聖な場所の人混みが好きではないのと、誰の呼吸も入り混じっていない真新しい空気を吸いたかった。どうせなら。

ということで、日の出とともに出雲大社に行きたい、と要望を出し、翌朝、まだ暗い中、出雲大社へ向かった。


車から見えた、山。神々しい。

(もののけ姫と千と千尋のサントラを流しながら)



誰もいない!


もりもりのしめ縄。


出雲大社、縁に纏わる神社。

偶然にも、自分の縁に対する姿勢なんかを最近(十月)感じることが多くあり、ここにきて遥々出雲大社へ足を運ぶ流れとなったのにも不思議な縁を感じた。


出雲大社前後の出雲記は、いいや。

現地の人のおすすめを聞いたりしながら、美味しいものばかり食べた。



感覚としては、旅をしてきた。

特に帰る場所はなく、ある一定数の期間、身体を休めるために、その町・村に腰をおろす。

そこにその町・村があったから、という理由で休ませてもらう。腰を据えはしない。

町・村の人々と話をさせてもらったり、時間を共有する。

そして、留まったりすることもなく、「時がきた」の心の合図で、また次の場所へ向かう。

出会ったすべての人への思いはすべて平等で、同一だ。もちろん嫌悪は一切ない。



これはわたしのこれまでの人間関係の在りかたで、良くも悪くも執着や情熱がなかった。

悪いとも思っていなかったし、自分にとって自然な在りかたでもあった。


タイで知り合ったタイ人、その他の国籍の人たち、と、現地で数ヶ月も一緒に暮らしたりしたにも関わらず、その後も繋がりつつげていたい、という意思はなく、今、繋がっている人は一人もいない。

他の国でもそうだし、日本で資格を取得するために出会った人たち、過去の職場の人たち、本当に「一瞬」「一瞬」に切り取られていて、あのとき感じた喜びなんかは思い出としてあの日の記憶に置いてきている。

唯一近くにる親友にも、「美春は人に興味がないからね」と言われていたから、わたしはこういう人間なんだとばかり思っていたし、それで良かった。



ただ、「育てていきたいと思うような人間関係を築いてみたい」そんな願いが生まれている。

旅をするような人間関係ではなく、根付くような、そんな。


人に相談をしたことがなかった。

喜怒哀楽の機嫌だったり、すでに答えが出ている、自己完結で解決した自分の意志や感情を伝える機会は誰に対しても多いけれど、心を開いて悩みや葛藤、手を貸して欲しい、というような思いを伝える機会はなかった。

これまでずっと、自分にとって自分が一番信用できると思っていたし、実際、どんなに死にたいほどに辛く苦しくたって、誰に相談することもなく、誰に助けを求めることもなく、本を求め、静かに目を瞑ったりしながら、わたし一人で乗り越えてきた。

物質的に、一人で生きている、助けられていない、わけではない。

もちろん、他人や機関、社会など、すべてに支えられて生きている。

今話しているのは、精神的な繋がりだ。


さまざまな人たちからの相談も受けてきた。

けれど、相談をしたい、という感情が生まれたことがなかった。かといって無理に隠したり、耐えたり、堪えたりもしていない。純粋に、これまでその選択肢がなかっただけで、他人に求めずとも自分自身さえいれば、本当に幸せでいれた。

他人に自分自身の着地も覚束ない心のうちを見せる必要性も感じていなかったわたしが、この今までに経験のない新たな門に足を踏み入れてみたい、そう変化しつつある自分の心の揺れもまた静かに眺めている。



彼に、自分の揺れがつづく今の心模様を話してみた。

彼そのものへの主張はよくあったけれど、今回はそうではない。

わたしだけの世界の話。わたしだけの心の話。

まだ自己完結しきれていない、まだ生温かく、まだ柔らかい話。


伝えてみて、話してみて、今までと同様に絶対的な答えは自分の中にあると知っていたからか相手に答えを求めていたわけではなかったのだけれど、「この人に聞いてほしい」と思い、大切だと感じる相手に揺れる心を開いた自分をみることができて、なんとも言えない不思議な感情に包まれた。新しかった。


普通は、他人に相談をする・心を開く、なんてことは日常的に行われている、日常茶飯事お茶の子さいさいなのかもしれない。ただわたしにとっては非日常的だった。

そして、それを機に、今までに経験したことのない世界へと前に進もうという決意ができた。

一つの章が終わったな。と、終わってしまったな。

この二つの感情の狭間にいる。正しい道に進んでいる証拠だ。



「人は二度生まれる」

いつか耳にした言葉が頭の隅で眠っていたけれど、今、ようやく目覚めたのか、強く訴えかけてくる。

一度目は、ただ肉体が生まれ、流れるように生きる。それは、自分自身の肉体でありながら、決して純粋な自分自身ではない、他人(親・社会・多数決・常識)に影響された自分。

二度目は、すべてにおいて純粋な自分自身として意図をもって生きる。それは、自分自身の肉体をもって、自分からのみ影響を受けている自分。


今、わたしは自分一人だけでも十分に幸せに生きていける。これからも。

なぜなら、わたしはわたしが喜ばせるし、わたしはわたしが慰めるし、わたしはわたしが抱きしめるし、わたしはわたしが寄り添うし、わたしはわたしが笑顔にするから。

それは、これからも変わらない事実だと思う。

わたしの幸せの権限は、誰にも渡さない。

誰もわたしのことを幸せにも不幸せにもできない。


けれど、そんな一人でも満たされているわたしが、他人と、世界と、繋がるとしたら。

きっと、濁りのない純粋な繋がりを真っ直ぐに味わえる。

わたしはずっとこの純粋な感覚を求めていたような気がしてならないのだ。


薄情でも他人に興味がないわけでもなく、はたまた人間関係に対してドライでもクールでもない。


ただただ '求める絶対的な明確なもの'があっただけなのかも、と。

本当に求めているもの以外、興味がなかっただけなのかも、と。

これまでの自分自身ではその絶対的な明確なものの存在すら感じられる意識に到達していなかっただけなのかも、と。


今の意識は、とても見晴らしがいい。清々しい。

今まで見えていなかったものが、より見えるようになった。

そして、今まで見えていたものが、もう見えなくなった。



旅は必要だった。

事実、その旅をやり尽くさなければ生まれもしなかった願望なのだろうから。 

わたしが自分自身を偽り、周りの人たちの人間関係に対する価値観に合わせつづけていたとしても、結局は旅的人間関係を求め焦がれていたと思うから。

結局のところ、すべてにおいて必修科目なのだろう。

なににおいても、今この瞬間の内なる自然に従ったほうがいい。

自分にとって最善なタイミングで、最高な形におさまる感覚がある。


わたし自身、他人と深く繋がる前に自分と深く繋がりたかったのだと思う。 

他人・世間という大きな世界よりもまず、自分という小さな世界と、深く強く、繋がりたかった。繋がらなければならなかった。


旅のような人間関係では、自分にとって自然な自分を見るために、数年ごとに変わりゆく人たちと自分を重ね合わせながら、あらゆる感覚を足したり引いたりしてきた。 

そして、より自分にとって自然な自分に出会い、自分一人でも幸せで、自分一人でも満たされるようになったのが、この今なのだ。 


今、他人と深く繋がってみたくなった、といった変化よりも。

今、他人と深く繋がれる準備ができた、といった合図なのかもしれない。



本当に。

すべてがすべてでよかった。

よく分からないけれど。

すべてが。本当に。

よく分からないけれど。



壮大にぶちまけたヨ❗️

上から下まで、中まで、茶色まみれ❗️

蓋閉めてないのに、蓋の穴から飲もうとしたからだよ❗️

一人で笑って愉快だった❗️


これを機に、家に帰って壮大な洗濯をした。

秋冬の服たちと総入れ替え。

部屋も大掃除して、すっきり。